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今何時だろう、まだ外は暗い。
包まれている背中に、小さな寝息が当たっていた。
どんな状況でも、お腹が鳴るのは抑えられない。
ぴったりと重ねたレオの身体はその音を感知したらしい。くっくっと笑うその声に、抵抗しても無駄だと悟った。
「……身体は正直だね」
「結局、食べずにいたから」
「ご飯の代わりにレイをいただいたから」
「そういう言い方、やめてくれる?」
最高だったよとつぶやきながら残り香のようなキスが降ってきて、ふたたび愛を交わし合う。窓の外の闇夜は、青味を帯び始めていた。
レオは「良い所があるんだ、おいで」と言って少しだけ気だるい身体を起こされ、伶を連れ出した。
何段も上がった階段の扉を開けた先は、アパルトマンの屋上だった。見慣れた街並みに、家々や街灯のあかりが煌めいている。まだ朝の気配はしない、皆が眠る、一日の中で一番静かな時間に思えた。
乾いた風がどこかから吹き抜け、火照った身体に心地よい涼しさを運んでくれる。
レオがラグを敷いている間、伶は少し早い朝食の準備をした。昨日食べるはずだった、サンドイッチやクロワッサンを皿に盛り、熱いコーヒーとオレンジジュースをいれて、カマンベールチーズを切った。そういえば、と思い出してスーツケースを探った。
食事を屋上に運ぶとまるでピクニックみたいだと、レオははしゃいだ。彼はシャンパンを開けようとせがんだが、朝からレッスンだからダメと言って諦めさせた。
「もうすぐ、夜が明ける――」
お腹がふくれたらまた眠くなってきて、レオに促されるまま彼の太腿に頭を置いた。
レオはカマンベールをちぎっては、膝枕で寝転ぶ伶の口に入れ、自分は伶が日本から持ってきたメロンパンを大事そうに食べていた。たまにチーズの代わりに軽いキスをした。
「どうしてそんなにやさしいわけ? なんだか怖い」
レオは照れくさそうにはにかんで、ブランケットを伶の足にかけた。
「ジャンに言われてようやく気づいた。伶の人生を僕がどれだけ変えてしまったかということにね。だからできることは何でもしたいんだ」
「言ったでしょ。自分で選んだことだからって。レオに気を遣われるのは嫌なんだ。したいからしてるだけ、そう思ってくれないの?」
伶はゆっくりとずらすようにして、顔を上に向けた。
「わがままついでに言うよ。レオ、1曲弾いてくれない?」
「今?」
レオは何度も伶にピアノをリクエストしていたが、伶が頼むのは初めてだった。こんな夜明け前に?と焦るレオを横目に、伶はふわふわと笑っているだけだった。
空が白みかけてきた。
こんなにじっくり夜明けを楽しむのは初めてのことだった。そして今日のことはずっと忘れないだろう。
レオに出会わなければ、一生恋をするなんてことはなかった。誰も愛さず、誰からも愛されず生涯を終えていたにちがいない。
レオが朝日を背にヴァイオリンを構えた。最初はあれこれふざけていたけれど、弓が弦にふれた瞬間、ヴァイオリンに捧げた人生と時間の分だけ真剣な表情になる。
フォーレ 夢のあとに
みずみずしい彼の音が朝日に溶けていくようだった。レオと出会ってすぐに、彼のために歌った曲。もうほとんど覚えていないはずなのにヴァイオリンの旋律とともに自然と歌詞を口ずさんでいた。
あの日から、ふたりの運命は重なっていたんだ。
弾き終わる頃に異変が起きた。
周りのアパルトマンの部屋の明かりがそこかしこから灯り始める。向かいの住民らしきおじさんはベランダから乗り出すようにこちらを覗き込んでいた。
「やばい、レオ逃げよう」
「え?」
ふたりで荷物を抱えて大急ぎで階段をおりる。その時、いくつかの部屋からは、大きな拍手とともに指笛が聞こえた気がした。
部屋に着いた頃には肩で息をしていた。せきを切ったようにふたりで声を出して笑った。伶が笑いながら涙を手で拭う。その涙は笑いすぎたからなのか、ヴァイオリンに心を打たれたからなのかはよく分からなかった。
きっとそのどちらもなんだと思う。
「レイ、一緒に暮らそう」
レオはなんの脈略もなく言った。
「もう暮らしてるじゃん」
「そうじゃなくて、これから先も」
「やっと日本で仕事を貰えるようになったのに?」
「ずっとじゃなくてもいい、1年のうちの、半年でも3ヶ月でも。僕もできるだけ日本に行けるようにする」
一緒に生きて欲しい、とレオは言った。
喜んで、と伶は答えた。
ふたりはちょっとだけはにかんで、ふたたび笑い合った。
おわり
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