序奏とロンドカプリチオーソ

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「今日はひどいこと言った。伶が代役を引き受けてくれたからのびのび弾けたんだ。なのに怒鳴ったりして、恥ずかしいよ」 伶は目を伏せて首を振った。 「人前で弾いてて途中で止めてしまったのは初めてだよ。どんな理由があれピアニスト失格だよ」 「ううん、レイとの合奏楽しかった。クロエだと競争みたいにお互い熱くなっちゃってさ。あとでよく揉めるんだ」 明るくて議論好きなクロエの性格が浮かぶかのような言い方だった。そういえばレオはこの国の人にしては珍しく感情表現が豊かで分かりやすい。気を遣うような相手より、自分にとっては良かったのかもしれない。まあこんなに寛容になれるのは、レオが謝ってきたからかもしれないけど。 「ねえ。もしかしてポール先生の秘蔵っ子ってレイのこと? 確か東洋人の可愛い男の子だって、クロエが噂してた」 「師事してるのはポール先生だけど、秘蔵っ子かどうかは知らない」 「ふうん」 「何?」 「いや、レイってさ勉強得意でしょ? フランス語もうまいし、譜読みもすごく速いよ。よっぽど頭の回転がいいんだね」 速いと言われても、あまり人と比べたことがないから分からなかった。遅い方ではないと思うけど。 「そういえば、小学校の校内放送で子犬のワルツが流れてたんだけど、何回か聴いただけで弾けるようになったな」 「じゃあオーディションの初見視奏なんて余裕だった?」 「いや全然。緊張してたし、控え室がめちゃくちゃ寒くて頭もお腹も痛くて。早く終わってくれって必死だったよ」 2月のオーディションは凍えるような日だった。とにかく長い間待たされ、控え室にはボロボロのピアノがあった。けど使っていいのか分からくて、そのうち本当に凍死するくらい震えが止まらなくて、思い切って課題曲だったショスタコーヴィチのピアノソナタを練習した。あのピアノでなんとか生き長らえたんだ。 伶は思い出しては首をすくめた。正直いってもう二度とごめんだった。 「オーディションでなに歌ったの?」 「歌った?」 「課題曲出されたでしょ。歌も練習してこいって言われなかった?」 確かに初見試唱の他にフランス歌曲の課題があった。中学校で3年間みっちりフランス語漬けだったとはいえ、歌となればまったくの別物だ。発音にも発声にもほとほと苦労した。 「......フォーレだよ。『夢のあとに』」 「あぁ、その曲ならヴァイオリンでもたまに弾くよ。ねえ、歌ってよ。聴きたいな」 「絶対に嫌だ」 「レイのよく通る声、好きだよ」 「褒めてもダメだよ」 「ケチだな」 レオはベッドにぽすっと寝転んで、うーんと猫みたいに背中を伸ばした。 「歌ってくれたら明日、寮の近所を案内してあげる。一番近いマルシェと楽譜屋さんと、おいしいって評判のパン屋(ブーランジェリー)さんも」 伶はまだまだといふうに首を振る。 「うーん......それに、16区にあるフォーレのお墓にも連れて行ってあげる。ドビュッシーと妻のエンマ・バルダックも同じパッシー墓地に眠ってるんだ。たぶん誰かに連れて行ってもらわないと墓地の中で迷子になるよ。ジャンが世話してる白バラを何本かいただいて手向けよう、ね」 絶妙なチョイスに苦笑しながら気を許してしまいそうになる。 「レイ、お願い」 伶の手首を縋るように掴んできた。 とっさにレオに顔を向けた。目は潤んでるし、握られた手の平は熱い。まだ熱は完全には下がっていないようだ。 その瞳は寂しいって訴えているみたいだった。両親も帰る家もないなんて。そのつらさや苦悩は、自分の想像の限界を軽く超えていた。 「レイ、これからもルームメイトでいてくれる?」 「え?」 「出て行ったりしない?」 「しないよ。するわけない」 「ほんと? …………良かった」 彼は安心したかのように微笑んで目を閉じた。 伶はすこしだけためらった後、風が葉を柔らかく撫でるように歌い始めた。 Dans un sommeil que charmait ton image 君の姿に魅了される、まどろみの中で Je rêvais le bonheur, ardent mirage, 僕は幸せな夢を見ていた、燃え上がる幻影を Tes yeux étaient plus doux, ta voix pure et sonore, 君の瞳は優しく、声は澄んで音に満ちている Tu rayonnais comme un ciel éclairé par l’aurore 君は輝いていた、夜明けに照らされた空のように * * * 半分歌っただけなのに、レオはもう静かな寝息をたてていた。なんて寝付きのいいヤツなんだろう。 伶の指先は、レオの手の平に包まれたままだった。 空港の別れの際では母の手を避け、母を泣かせた父に背を向けて何年も経つ。パリの中学校では友達と呼べる子はいなかった。 無邪気であっという間に人の心を攫っていく。 自分にできた初めて友達? 友達なの? この感情はよく分からない。 レオの安心しきった無邪気な寝顔を見ていたら、なんだか自分も眠くなってくる。頭をぽたりとベットに垂らし、伶の意識も沈んでいった。 「Gabriel Fauré作曲 ”Apprès le rêve” Romain Bussineフランス語訳」
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