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音楽教室
『アラベスク ブルグミュラー25の練習曲』
バイエルを終えた子たちが揃って挑戦する有名な曲だ。この曲の要所は、散りばめられたスタッカートと左手の16分音符の繰り返し。特にスタッカートを教えるは意外と難しい。伶はピアノに向かう小学2年生の生徒に語りかけた。
「……美蘭ちゃん。水たまりにさ、バシャンって飛び込んだことある?」
「うん、あるよ! 学校の帰り道で」
「水たまりに思いっきり飛び込んだつもりで、そのまま上に高くジャンプしてみて」
「ここで?」
美蘭は少し戸惑いを見せたがすぐにいつものおてんばな顔に戻り、ぴょんっとジャンプしてみせた。
「そう。飛び込んだら、力を込めてジャンプ。スタッカートもこんな風に弾いてみよう」
「えいっ!」
頭上高くに手をかざし、ハイタッチ。
続けて美蘭をピアノに向かわせ、左手の手本を見せる。すらりと筋張った長い指先と腕は男性的で、伶の中性的な顔とのアンバランスさが際立った。
何度か美蘭に弾かせ、最後に良かった所を褒めておく。そうすれば良いイメージでレッスンを終えられる。とにかくお客様第一主義だ。
「レイせんせー、さよーなら」
「さようなら。また来週ね」
伶は柔らかに微笑みながら「ハヤノ音楽教室 三鷲校」と看板が下げられた玄関ドアを開けた。晩秋の冷気がひやりと首筋に潜り込んでくる。
これで週1回40分、月1万円也。業務委託契約であるピアノ講師にはそのうち4割入る。決して実入りの良い仕事とはいえないが、どんなワガママな子を相手にしようとも週に1回会うだけなら我慢できた。
ピアノ講師として働き始め2年が経つ。地方の音大を卒業した後、上京して1年ほどふらふらと職にもつかず、かといって遊び歩く気力もなく過ごした。
そろそろ何かしなければと思った頃、駅前に音楽教室があるのに気づいた。なぜか雇ってもらえたのは助かったが、動機がいい加減だったこともあって、雇ってくれたエリアマネージャーの聖子には頭があがらない。
「うちに通う子は3歳から高校生までよ。ピアノの技術も大切だけど、それよりも子ども相手は我慢と忍耐、どれだけ辞めずに楽しく続けてもらうかよ。まあ、とりあえずやってみたら」
ハヤノ音楽教室は、東京と千葉、神奈川に12教室展開している中規模のピアノ教室である。経営母体は学習教材、全国規模の塾を経営する「アドミグループ」。ここ三鷲校は、三鷲駅から徒歩3分の商業ビルに入居していた。
(結局、ピアノも弾かずに受かったんだっけ)
2年前の面接の日を思い出して、伶は苦笑した。
「うわ、また美蘭ちゃんのお母さんから差し入れもらったんですか。伶さんばっかりずるい!」
学生アルバイトの相模琴葉が後ろから恨めしそうにのぞき込んいた。
「欲しいの? じゃ、相模さんにあげる」
伶は惣菜の入った袋を、なかば押しつけるように手渡した。さっき帰る時に美蘭の母親にもらったものだ。
隣の市にあるのK音大に通う彼女は、この教室でアルバイトとして働いて1年になる。持ち前の朗らかさと歳の近さもあるのか、子どもたちからの評判も悪くない。
「ありがたく頂戴しますよ。『三鷲校は若きイケメン先生でもってる』って噂はまぎれもない事実なんですから」
「どうとでもいえばいいよ、それで教室が成り立つなら」
どこの教室も生徒の確保は死活問題である。どんな理由であれ通ってくれる生徒は貴重だし、逃したくない。昔は女の子みたいと同級生にからかわれた容姿も、今になって役に立つとは皮肉なものだ。
伶は煩わしそうに、後ろ髪をひとつにまとめていたヘアゴムを取り去った。そのしぐさに琴葉はしばし見とれ、すぐに我に返ったように、あっと大声をあげた。
「ねえ、伶さん。お返しにいいものあげます」
「そんなのいいよ」
「ヴァイオリンリサイタルの招待券ですよ? うちの教授の教え子の方がピアノ伴奏するんだそうです。厳正なるジャンケンに勝利して、私がチケットをもぎ取ったんですから」
伶は楽譜を棚に片付けながら、へえ、と生返事をした。
「それよりもうすぐ試験なんだろ。僕なんかに構ってないで練習したら?」
「いいんですか、完売してるレアものですよ。ほら」
琴葉は勢いよく伶の面前に一枚の紙を掲げた。
よくあるリサイタルのチラシだった。けれどそこに写る人を彼だと認めたくなくて、でもどうしても目が離せなかった。
「カッコいいでしょうレオ様。本物、見たくないです?」
タキシードを着こなしヴァイオリンを胸に抱えた白人男性。ヴァイオリンが小さく見えるほど胸板は厚くたくましかった。楽器をもっていなければ、モデルか俳優といわれても信じるだろう。
彼が来日していたことは知っていた。たまに見る音楽情報サイトに載っていたから。あえて見ないようにしていた。いや、見なかったことにしていた。
「貴公子が弾く超絶技巧のヴァイオリンだって。女子ってほんと目ざとく探してきますよね、こういう王子様みたいなイケメン」
チラシを睨んでいる伶の横顔を、琴葉はじれったく見つめた。
「伶さん?」
「……そんなにカッコいいか?」
「伶さんも負けてないですけどね」
伶の言葉をヴァイオリニストに向けた嫉妬と理解したようだった。
「ね、一緒に行きましょう? デートってことで」
「本気で言ってるの?」
「私じゃ嫌ですか。だって伶さん、誘っても全然乗ってくれないんだもん」
ストレートすぎる物言いがかえって琴葉らしいと伶は苦笑いした。
「バイトの子とデートして、保護者にバレたら言い訳がめんどうだな」
「大丈夫ですよ。私、来月辞めるんで」
「辞める? どうして」
琴葉は屈託のない笑顔を浮かべた。
「なんかそろそろ就職とか考えないとって思って。でも私、ひとつのことにしか集中できないんですよね。思い切ってこの際、就活に全振りしようかと」
就職活動をしなかった自分には、その大変さがよく分からなかったが、琴葉の決意はなんとなく伝わってきた。そういえば北陸の雪国出身だといっていたから、地元に帰るのだろうか。
「だから伶さん、最後のお願いです。ね、いいでしょう?」
……辞める、か。断る理由がなくなってしまった。伶は軽やかに去っていく琴葉の背中を見つめて深いため息をついた。
レオの輝くばかりの着飾った姿を見た瞬間から、心のどこかがめくれてひっかかり、ささくれだっている。
決して嫉妬でも羨望でもない。ましてや懐かしいや会いたいでもない。この感情はちぐはぐで、言葉ではうまく表現することができなかった。
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