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リサイタル
......断ろうと思えば断れた。
すべては結局、自分の意志なのだから。
音楽教室のある三鷲駅から電車で20分、駅の構内から直結で入れるコンサートホールは築40年となかなか年季が入っているが、音響は良いと定評がある。
約束の時間よりも30分も早く着いてしまった。
丸く大きな曲線を描くホールの外観に沿って、公園のように広葉樹が植えられ、紅葉の見頃が過ぎた葉がはらはらと舞い落ちていた。
人混みを避けようと木の下の設置された長いベンチに腰をかけると、スマホの着信音が鳴った。
「……いや、冗談だろ……」
白いニットワンピースに身を包み、赤いリップをつけた琴葉が屈託なく笑う。普通なら可愛いと思うところだろうが、今はそれすら憎らしかった。
「受けちゃいました。だってレオ様に直接会えるチャンスなんてめったにないし、一曲だけでいいって言うから」
音大の教授から、琴葉へ電話が入った。今日弾くはずだったピアノ伴奏者が急病で倒れたという知らせだった。いつも落ち着いている教授の声がうわずっていたという。
「伴奏してくれる人探してるらしいんですけど、結局私しかいないってことになったみたいで。無理に引き受けなくてもいいとは、教授に言われたんですけど」
責任感の強い初老の教授は、急病に倒れた教え子のためにも、フランスからわざわざ来ている気鋭のヴァイオリニストのためにも、代役を必死に探したのだろう。
ピアノ伴奏だけなら、ほかにいくらでもピアニストはいる。ただこんなに直前では大急ぎで自宅から向かっても開演時間には間に合わないだろう。
「何弾くの?」
「ロンカプをやれないかって言われて。去年、学内演奏会で伴奏したんです。その事を教授も覚えてたみたいで。あ、知ってます? サン=サーンスの序奏とロンドカプリチオーソ」
「伶さん?」
しばし押し黙った後、口を開いた。
「知ってるけど......相手はプロなんだから、プログラム変えれば一人でやれるだろ。どういうわがままだよ」
「でも、あんなに焦った教授の声初めてで、気の毒だなって。それに伶さんも会ってみたくないですか? 本物のレオ様」
「……僕はいいよ、相模さんだけで行っておいで」
「そんなぁ、一人じゃさすがに心細いです。付いてきてくださいよ!」
「冗談だろ、すぐに断りなよ!」
言い争いをしていると、琴葉のスマホが鳴った。相手に居場所を伝えるとすぐにホールの楽屋口から、30代くらいの彫りの深い男が走り寄って来た。レコード会社の社員であると告げられ、今回のリサイタルでレオのマネージャーも兼ねているのだという。
「無理なお願いだということは、重々承知の上なのですが......」
平身低頭な様子で『城 グスターヴ』と書かれた名刺を素早く渡される。お互い名前だけ紹介して、とにかく来てくださいとふたりを引きずってでも連れて行くような形相だ。
「レオが、他の伴奏者を探して欲しいというものですから」
プログラムの大部分を入れ替えることになったが、一曲くらい伴奏して欲しいと言い出したという。
確かに伴奏者さえ見つかれば、彼の負担が大幅に減るのは事実だった。城は必死でほうぼうに電話をかけた。まさかとは思うが、彼が今日は弾かないとでも言い出せば、大損害なだけでなく自分の首だって危ないんです。と、冗談とも本気ともとれない事を言って嘆いた。
こんな緊急事態なのに、伶はどこか可笑しくなって顔が緩んだ。未だに彼は周りの人を巻き込んで、ひっかきまわしているらしい。
琴葉はへえ、とまるで他人事みたいに面白がって聞いていた。のんきな子だとは思っていたが、この調子で本当に大丈夫だろうか。まあ、いざとなれば、琴葉ができないと断ればいいだけの話だが。
ああ、やはりすべて断った方が良かったかもしれない。
こんな所でもアイツに振り回されるとは、思いもしなかった。
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