リサイタル

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練習室の外にまでパガニーニの音色が響いてくるから彼の居場所はすぐに分かった。部屋に入るなり城は琴葉をレオに引き合わせた。 レオから頬同士を合わせるビズをされ、琴葉の顔が照れながらも明るく晴れた。 「レオです。コトハ、はじめまして」 身に纏うレオのオーラに気圧されそうだった。彼にだけ高い天井からスポットライトが当たっているみたいだ。180センチはありそうな長身と鍛えられた身体。濃紺の艶やかなタキシードに薄い栗色の髪が映えている。 伶は部屋の隅にあった椅子に座り、遠くから彼らの様子を少しだけうかがった。彼らがこちらを気にする様子は一切ないことに安堵しながら。 「こんな直前に急病人だなんて前代未聞ですよ。でも、琴葉さんのおかげで何とか格好がつきそうです」 元々予定していた伴奏者は心筋梗塞の疑いで救急搬送され、病院で治療を受けているという。命に別状はないらしいとの報告を受け、城達は胸をなでおろしていた。 フランス人との混血であるという城は、張りのある見事なバリトンボイスだった。彼は声楽を学んでいたのだろう。体格も良く、会話していると少々威圧感を感じるほどだった。テキパキとした行動の素早さから、かなり仕事ができそうな人物であることが分かる。 『コトハ。ロンカプの伴奏お願いできるかな。合わせるから弾いてみて』 レオは当然とばかりにフランス語で告げた。ヴァイオリンを無造作に構えピアノの音に合わせ軽くチューニングする。 「琴葉さん、伴奏、お願いします」 「あ、はいっ!」 城の言葉に、琴葉はあわてて渡された譜面を追った。 冒頭から流れるヴァイオリンの旋律に、何かのスイッチが入ったかのようにぶわっと記憶がなだれ込む。毎日のように弾かされたあの頃を。 ……なんて簡単そうに弾くんだか。 ピアノに斬り込むタイミングも拍子の取り方の癖も、すべてが手に取るように蘇ってくる。じわじわと何かで満たされていくような懐かしさが喉のあたりまで込み上げてきた。 郷愁を誘う序奏がトリルで終わり、場面はスペインのお祭り会場へと、レオのヴァイオリンは聴く者をいざなっていく。 彼が生み出すみずみずしい音の本質は変わらない。伶は目を閉じ、しばし音楽に浸った。 ピアノ伴奏自体は琴葉でもクリア出来るだろう。問題はヴァイオリンの音を聴きながら、主張させずに聴衆の耳まで届けられるか。観客の視線が集まる中で、どれだけミスタッチしようとも弾くことをやめずに走り切れるかだ。 序奏は、レオも彼女のピアノを窺う気遣いをみせた。だが弾むようなロンドの主題が始まると、ピアノに乗っかって歌い始めた。自在に飛び跳ね、急停止するレオに、琴葉の顔から次第に血の気が引き始める。 焦れば焦るほど噛み合わない。疾走するライオンに手綱をつけて散歩するようなものだ。琴葉の手に負える相手じゃない。 曲の終盤、コーダに入る直前でついに琴葉は手網を離してしまった。うつむいて固まる琴葉のピアノが途切れても、彼は寂しそうに肩をすくめただけで、最後まで鮮やかに弾き切った。 残響が漂い、淡く霧散していった。 『レオ、もう諦めるんだ』 城のフランス語は、きっぱりと厳しいものだった。 レオはうなずきながら素直に弓を下ろした。 『コトハ、無理を言ってゴメンね』 申し訳なさそうな表情から、言葉は分からなくても謝罪の意志は伝わる。 「ごめんなさい」 琴葉の口元は引きつっていた。ちょっとでもつついたら今にも泣き出しそうだった。 「これから大勢の観客の前でこれを弾くんだって想像した途端、レオ様にも譜面にも置いてかれちゃって……すいません」 「いや、無茶を言ったのはこちらですから」 城はそうフォローしたが、状況が良くないことは明らかだった。 『……この曲だけは、伴奏して欲しかったんだけどな』 『どうするレオ? もう時間がないぞ』 プログラムの相談するふたりを横目に、伶は唇を噛み締めた。 ......悔しい。なんでこんなに悔しいんだろう。 ただじっと座っていることしかできない自分に嫌気が差す。琴葉は勇気を出して伴奏を買って出たのに、自分は関係ないと手をこまねいているだけ? 自信がないのを言い訳にして、ただ自分の身を守りたいだけなんだ。 さっきから頭の中でずっと鳴り響いている。10年の間に可憐なミュゲ(すずらん)から、大輪のバラのように生まれ変わった香り豊かな音色。 彼が何千回も練習して積み上げてきたこの素晴らしい曲を、たったの一度も観客に聴かせることができないなんて。本当にそれでいいの? ただ、ふらりと無意識に身体が動いていた。 部屋の隅から、3人が囲むグランドピアノの前へおずおずと歩み出る。 「あの……僕に弾かせてもらえませんか」 琴葉と城は一斉に振り向いた。 「え!?」 「はあっ?」 「うそ! 弾けるんですか、伶さんが?」 琴葉の言葉に吹き出しかけた。ほんとに底なしに明るい子だ。 彼の瞳に自分が映った。 どう見てももう女の子には見えない。25歳になった自分はレオの目にどう映るのだろう?  もしかしたら気づかれないかもしれない、自分のことなど忘れているかもしれない。新しい代役が見つかったと喜んでくれるだろうか。それならそれでいい。 今はただ、レオを待つ観客に彼の音楽を届けたいと願っているだけだから。 カラン、と乾いた音が床に響いた。 弓が手から滑り落ちた音らしい。 (高そうな弓だ) 「Ne laissez pas tomber votre précieux archet.」 『大事な弓を落とすなよ』 拾った弓を差し出したが、その指先は小刻みに震えていて動かない。 ......仕方なく見上げた彼の瞳は濡れ、今にも溢れそうだった。
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