リサイタル

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開演5分前を告げる鐘の音が、コンサートホールを包んだ。えんじ色の観客席が次々と埋まっていく。 ホールは満席に近いというのに、琴葉の右隣は空席のままだ。 「はあ……」 1時間以内に起きたことの情報量が多すぎて、処理が追いつかない。会場が暗くなるにつれ、まぶたの裏に焼きついた、ふたりの姿が浮かび上がってくる。 伶を抱きしめたままレオは離れなかった。戦争で生き別れた恋人同士みたいに。城さんが無理やり引き剥がすようにして、ようやく離れたんだ。 (伶さんは、フランスにいたってこと?) 楽譜の中でしか知らなかった外の世界が、一気に鼻先まで近づいて吹き飛ばされそう。そんな衝撃だった。 「地方の音大出身だよ。サボってたからいつもビリ」 初めて会った時、琴葉からの質問攻めに伶は柔和に笑ってたっけ。あの笑顔に自分の心はあっという間に捕らえられてしまった。地方出身のどこにでもいるピアノ講師。だからって下に見ていたつもりはない。けれど、どこか彼のことをすべて分かった気でいたのも確かだった。 急に体調が悪くなった日も、やんちゃな生徒を受け持ってストレスMAXだった時期も、伶はそれとなく気づいて文句を言いながらも代わってくれた。いつもは全然愛想がないのに、たまに自分の行動が笑いのツボにはまるらしく、肩を震わせて笑ってるのが可愛くて。 いつか伶が、自分の方を振り向いてくれるんじゃないかって淡い期待をしていた。だけど……自分が知っていたのは彼のほんとにわずかな一面だけだった。 「みなさんコンバンハ、レオです」 レオがマイクを持って挨拶をしただけで女性達から歓喜の声があがる。手を振って応えるレオに、ここはアイドルのイベント会場かと疑わしくなるほどだ。琴葉もこんなことがなければ、のんきにカッコいいと騒いでいたことだろう。 会場の熱気を逃さないまま、滑るように鳴らし始めた。 パガニーニ 24のカプリース 第5番。 ヴァイオリンは息継ぎがいらない。聴いている方が呼吸を忘れるほど、全力疾走で駆け抜けていく。 (こんなに大きい音が出るんだ……) ぴーんと張ったレオの音色はコンサートホールにとどまることなく外へと飛び出していきそうだ。 カプリースは5番で始まり10番に続き、最終的に24番へと繋がれた。 万雷の拍手と悲鳴に近い歓声に、思わず琴葉もつられて手を叩く。 プログラムも中盤を過ぎた頃だろう。 ピアノ伴奏が代役であることが告げられた。観客席のざわつきが期待へと変わったのは、下手(しもて)から伶が足早にあらわれたからだろう。観客の見とれたような熱い視線が伶に吸い寄せられていく。 カジュアルなダークグレーのジャケット姿。ステージに立ってもやっぱり素敵だな、と心の中で優越感に浸った。 レオと共にさっと一礼をして席に着く。迎えられた拍手にも、向けられた好奇の視線にも興味がないようだ。インタビューさせて欲しいと城は懇願していたけれど、きっぱり断られていた。 ピアノ教室にいる彼とあまりに変わらなさすぎて、琴葉の方が拍子抜けしてしまったくらいだった。そういえば伶が真面目に弾いている所を聴いたことがなかった。発表会の講師演奏も断るか、映画の曲を弾いたりしていたっけ。 ステージ上のふたりが一瞬だけ見つめ合った。互いの呼吸を重ねるがごとく。琴葉の心臓がどきりと鳴る。 ……なんて澄んだ音なんだろう。 伶の音色は清流みたいに静けさをもっていた。しかも一つ一つ音の粒は水滴のようにクリアできらきら光ってる。悔しいけど、さっき弾いた自分のピアノと同じ曲とは思えない。 その繊細な音使いは、レオを絶妙なタイミングで支え、ぴったりと二人の息を噛み合わせていた。奇跡みたいな再会をしたふたりが、おしゃべりしてるみたい。 音楽ってなんて儚いんだろう。いくら後世に伝えられる名曲だろうと、奏でられる音の粒は空にのぼって溶けていく。星座みたいにずっと輝いてくれればいいのにと、琴葉はホールの天井の先にあるはずの夜空を見上げた。 曲が終わりに近づくにつれ、主旋律はヴァイオリンからピアノへと手渡される。レオが技巧に満ちたコーダを軽々と弾きこなしながら、伶にちょっかいをかけていった。 まるで鍵盤の上でじゃれ合う子猫の兄弟のように。どんなに甘噛みされようとピアノは崩れない。それどころか旋律は勢いを増し、ふたつの異なる楽器は絡み合い、やがてひとつになった。 レオの嬉しそうな顔が忘れられない。 気づけば伶は、椅子の後ろに立って頭を下げていた。 はあ、という甘い吐息のような感嘆が観客席に一帯に広がった。その余韻は歓声と混ざり合ってホールの隅々にまで溶けていった。まるでふたりが主演の映画でも観ていたみたい。 琴葉は、すべての観客が去り係員から声をかけられるまで、席から立ち上がることができなかった。
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