桜の樹木の花の下

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 ここだけの話だが、あそこには死体が埋まっている。  喫茶店にはその店主がいる。年齢は30代ぐらい、いつも茶色のエプロンをつけていて、笑顔で客を出迎える。そして、彼は暇さえあれば目の前の公園の桜を眺めている。  市立水行公園はかなり大きな公園で、県内でも屈指の桜スポットである。そんな公園に隣接しているこの喫茶店は、ネット記事などでも「花見の穴場スポット」として紹介されることが多い。春の見ごろの季節には、店内から桜並木が一面に見える。立体的に、グラデーションがかかったように咲き誇っている姿はとても美しい。  もちろんのことだが、桜というものは年中咲いているわけではない。桜の花というものは、咲いていな季節の方が長いのである。それでも、店主は、暇さえあれば桜の木を眺めていた。新緑の葉が茂るころ。秋が訪れ、落葉が始まるころ。冬の一面の雪景色に、桜の黒い木々が春を待っている姿……。自然豊かな公園の傍は一年中、どの季節が訪れても美しかった。  とはいえ、店は忙しかった。特に花見のシーズンなどは、飲食店特融の眼も回るような忙しさに、店主は息をつく間もなかった。彼はいつも開店前と閉店後、決まって公園の中を一周してくるののだった。  そして彼は毎日、いつでも桜を眺めていた。春の花桜。夏の葉桜。秋の落葉、そして冬の桜の幹を、恋するような眼差しで、じっと見つめていた。  客の中には、店主の眼差しに気づくものもいた。ある客は、彼が桜に恋しているのだと言った。そうでなければこの場所に、彼が店を構えるはずもなかった。  また、彼は頑なに従業員を雇おうとはしなかった。どんなに忙しくても、彼は一人でこの店を切り盛りしていた。毎日。毎朝。毎晩。毎年。彼は働き続けた。  働きすぎだ、という声をかける友人たちもいた。しかし彼は決まって首を横に振って、そんなことない、というだけだった。  前みたいに会社勤めに戻ったらどうだ、という人もいた。しかし彼は、人とうまくやっていく自信がないのだと言った。 「そんなことはない。きみは昔から上手くやっていたじゃないか」  と久しぶりに店に来た上司が言う。 「きみは体力があるし、センスもある。証拠にあの仕事だって、立派にやり遂げたじゃないか」  と後ろの公園を指さした。  店を開く以前の彼は、造園業を行っていた。あの公園に桜たちを植えたのは、他でもない彼なのである。 「当時は人手不足だったな」  と造園業の社長が言う。 「きみは本当によくやってくれたよ、戻る気はないのか?」  と今も人手不足な社長が言う。 「いいえ、ごめんなさい」  と彼は答える。 「僕はこの喫茶店が好きなんです。いえ、正確には、この喫茶店で桜を眺めているのが好きなんです」  彼が公園に桜を植えてから、そして彼が造園業をやめてから、実に8年の年月が経過していた。若木でひょろひょろと伸び盛っていた桜は、今ではしっかりとした幹の桜に成長していた。  それは彼にも同様のことが言えた。8年間、雀の涙ほどの資金で始めたこの店も、今ではいろんな雑誌に紹介されて、人気店と言っていいほど軌道に乗っていた。雨の日も晴れの日も、彼は桜を見続けた。彼は加齢し、駆け出しの若者から、落ち着いた働き盛りの青年になっていた。
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