桜の樹木の花の下

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 転機が訪れたのは、ある雨の日であった。  4月も終わり。桜は散り始め、道路に落ちた花びらがどんどん風化して行って、そこに降った雨に濡れている季節。  桜の終わりともいえるその季節に、彼女が初めて来店した。 「すみません、1名お願いできますか」  店主は手に持っていたマグカップを落とした。これは珍しいことだった。これは失礼しました、と店主は割れなかったカップを拾い上げて、彼女を席に案内した。  店内は狭かった。大きな窓が1つあって、公園の方を向いているだけ。雨に濡れた市立水行公園は店内からよく見えた。とはいえ、桜並木は散っている。緑と濃いピンクのまだら模様になっている姿は、お世辞にも美しいとは言えなかった。そんな桜をしばらく見つめた後、店主はメニューを持って行った。  さて、彼女がいる間中、店主はずっと店の中でそわそわしていた。初来店した客に、馴れ馴れしく話しかけるのは、彼自身のポリシーに反した。彼女も困惑するだろうし、二度とやってきてくれなくなるかもしれない。  彼女はホットコーヒーを1つ注文した。注文を取りながら、彼は確信した。彼女は初来店の客に間違いない。彼は客の顔をすべて覚えているわけではないが、それでも、こんな顔の人間が来たのなら、彼は必ず覚えているはずだった。  彼女は雨を眺めながら、ホットコーヒーをしばらく口にしていた。彼はカウンターの中に入って、別の客が残して行った皿を片付けることにした。彼は同じ皿を2度も洗った。彼は明らかに動揺していた。  そうしているうちに、彼女はホットコーヒーを飲み終わり、会計を済ませて退店することにしたらしい。彼は、彼女に話しかけたくて仕方なかった。コーヒーは美味しかったですか? どちらからいらっしゃいました? 前に会ったことはありませんか? また来てくださいますか?  しかし、彼はそうはしなかった。彼女は現金で支払いを済ませると、ちょっとだけ微笑んで、 「コーヒー、美味しかったです」  と言った。店主はにっこりと笑って、 「ありがとうございます」  とごく普通に返した。そうして彼女は退店した。傘を忘れてくれたらまた会えるのに、と彼は思った。しかし、まだ雨は降り続いていたため、彼女はごく普通に傘を手に取った。彼は雨を恨んだ。  彼はどうしても彼女に話しかけたかった。ところであなたは誰なんですか? 以前にどこかであったことがありませんか? しかし彼はそうしなかった。怖がられ、気味悪がられてるのだけは嫌だった。  それが功を制したのか、彼女は退店の際に、少しだけ振り返ってこう言った。 「また来ます」  彼女はここのコーヒーが好きになったらしい。彼の喜びはひとしおだった。  彼女は、彼女に似ていた。
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