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「実は、桜を植えようって話があるんだ」
と社長が喫茶店で呟いた。
「また桜を?」
と彼が聞くと、社長は頷いた。
「ああ、桜だ。どうやら市が味を占めたみたいでな。あの公園を観光名所にする一大事業を始めたらしい。今度もかなり大きな穴を掘る必要があってな」
と社長が言う。
「お前が喫茶店業を気に入ってるのは知っているよ。でも、あの公園も桜も好きなんだろう? どうだ、手伝っちゃくれないか。穴を掘るだけの作業だ。店の仕事が終わってからでいい。もちろんタダとは言わない。やってみないか?」
ある程度の額を提示してきたので、彼はその話に乗ることにした。こうして彼は少しだけ早めに喫茶店を閉めると、造園業の手伝いをすることになった。
さて、例の彼女は初夏に姿を現した。涼しげな装いをした彼女は、クーラーのよく効いた店内の一番奥に腰かけた。彼女はまたホットコーヒーを注文した。
「すみません、冷房弱めましょうか?」
注文の品を持っていく際、彼は彼女に話しかけた。
「あ、大丈夫です」
彼女はホットコーヒーを受け取って、首を横に振った。
「ただ……」
その時、他の客が店主のことを呼んだので、会話はそれきりになってしまった。
彼女がゆっくりとホットコーヒーを飲み終わって会計するときには、もう店内に他の客はいなかった。閉店も間近で、新たに入ってくる客もいない。
彼は尋ねてみることにした。
「今日は暑かったですね」
彼女はちょっとびっくりした顔をした。彼が親しげに話しかけてきたからだろうか。しかし彼女は、すぐににっこりと笑って、こう答えた。
「ええ、本当に今日は暑くて」
「それでもホットコーヒーを頼むんですね」
店主が尋ねると、彼女は自然に頷いた。
「ええ、氷の入った飲み物は体を冷やすからって、よくお姉ちゃんが」
彼は、やや不自然ともとれるほどに、大きく頷いた。そうか、そうだったのか。彼女は彼が大きく頷いたのを見た後、こう続けた。
「私のお姉ちゃん、もうずいぶん前に……いなくなったんですけど」
彼女が「なくなった」と言ったのか、「いなくなった」と言ったのか、判別するのは難しかった。だけど彼は、姉が「いなくなった」と言ったことをはっきりとわかっていた。
「それは失礼しました」
と彼が言うと、
「いえ、いいんです」
と彼女が答える。
「もう8年も前のことで。私は小さかったんで、あんまり覚えていなくて」
と彼女は小さく微笑んだ。
「最近は、知っている人にとても驚かれるんですよ」
と彼女は財布をしまいながら言った。
「姉に瓜二つだって。姉に生き写しだって」
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