桜の樹木の花の下

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 辺りは夜になっていた。暖かいとはいえまだ冬、公園内に人気はない。桜であるはずの樹木は、枯れ木のシルエットのように夜空にたたずんでいる。それを園内の街灯が照らしている。 「すみません、突然呼び出してしまって」  と彼は言う。 「日課なんです、この公園を歩くのが」  そう言うと、彼女は不思議そうにあたりを見回した。 「こんなに、何もない公園を?」 「いいえ、あります、桜が沢山」  彼が言うと、彼女は尋ねた。 「桜が?」 「そうです。桜というのは花の名前ではありません。樹木の名前なんです。どうしても桜の花が舞う春にだけ注目されてしましますが、夏も秋も冬も桜という樹木はそこにあります。ずっとそこに鎮座していて、春のあの一瞬を待っているのです。根から養分を吸い上げ、葉で太陽の光を浴び、ずっとずっと、桜はそこにあるんです」  彼が珍しく興奮気味に話すのを、彼女は不思議そうな顔で見つめていた。 「考えたこともなかったです」  彼らはぐるりと公園を一周し、例の大蔵桜の近くにやって来た。8年前に、彼自身が植えた木である。  彼は、唐突に彼女に尋ねた。 「お姉さん、死んでいると思いますか」  彼女は少しだけ戸惑った後、答えた。 「ええ。きっと」  彼女は続ける。 「きっと姉は、何かの事件にかかわってしまったんです。そして、殺されてしまったに違いありません。死体は、絶対に見つからないところに埋められたのでしょう」  彼女が言うと、彼は頷いた。 「ところで、この公園にまた桜が植えらえるのは知っていますか?」  彼が聞くと、彼女は首を横に振ったので、彼は説明した。 「今度植え替えられるのは、文化財の木なんですよ。かなり大きな桜で、大掛かりな植え替え作業になります。本当に大きな穴が必要でした。まるで、人が埋められるぐらい」  彼の言葉に、彼女は動きを止めた。 「8年前の桜は根付きました。あの大きさになってしまえば、植え替えはもう不可能です。第一、皆に親しまれている桜の木の下を掘り返そうとする人なんていないでしょう」  彼女は、彼が言わんとすることを理解した。 「ずっと、桜の樹木の花の下を想像して喫茶店を営んできました。毎日。毎朝。毎晩。毎年。朝も昼も夜も、開店前も開店中も開店後も。毎時、毎分、毎秒桜を眺めています。いつも春は不思議な気分になるんです。なんにも知らない観光客たちが、大きな桜の根の上で、綺麗だねって頭上を眺めている姿は。もしかしたら、僕は、ずっと桜が嫌いだったのかもしれません。憎んでいたのかもしれない。いいえ、僕は愛していました。彼女のことを。だから僕は」  彼女は言った。 「あなたが姉を……」
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