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この森の入口には一応といっていい程度の細くて押せば倒れそうな金属製の柵が立ててあり、それが途中まで続いている。流石にこの山一帯を覆うようなものは作れなかったので、本当に注意喚起用でしかない。
その入口から五メートルほどのところに木造の小屋が一つある。割れた窓ガラスはダンボール箱で穴が塞がれ、屋根の半分がトタンになっている、荒屋だ。他にも真新しい板が何箇所かに打ち付けられ、応急処置といっていい程度の補修がそこかしこでなされていた。
その小屋の中で、少年は無機質な金属の人型をした存在から、くどくどと注意を受けていた。
「分かっていますか、ミスギさん。ここではあなた以外の労働力はありません。先日搬入された苗は未だに奥に眠っています。そうしている間にも今日は二件、追加で注文がありました。明日、いえ、おそらく明後日にはこちらに到着することでしょう。それを処理するのは誰ですか? 私ではありませんよね?」
ミスギ――と呼ばれた少年はアリスと都合上呼んでいる事務対応ロボットに眉を顰めつつ「分かってる」とだけ答えた。確かにドアのない続きの奥の部屋を覗けば白い布で包まれたものが横たわっている。それは彼が植えるべきものだ。けれど彼は庭師でも造園師でもない。ついでに大工でもないし、左官職人ですらない。これでも一応学者だった。
彼は折返しの電話をして運搬時の注意点を伝えると、最後にこう付け加えてから受話器を置いた。
――まだ生きてますから、手荒い扱いはされないようにお願いします。
それから愛想笑いをするという機能の欠如したアリスを一瞥し、奥の部屋に放置されているそれを台車に載せた。最初はもっと重いものだと思っていたが、その重みの大半が水分だったことが分かると、少し乾燥させ、片手でも持ち運びできるだけの重さにしてから所定の場所まで運ぶようになった。
外の陽気は良かった。おそらく峠を超えれば紅葉が広がっているだろう。だがここでは桜以外を目にすることはない。
坂になっているところを台車を押して歩いていくが、今では本当に隙間なく桜が植わってしまっていて、この西側のエリアは大部分が自分の手によるものだと考えると、一体どれだけの人が犠牲になったのだろうということを考えてしまう。
そう。ここに植わっている桜は全て、元人間だ。
――桜病。
正式名称は「トキモリ・チェリーブロサム症候群」と呼ばれている。ある日突然人体が桜へと変化する。最初は小さな桜の花びらが皮膚に貼り付いているように見えるだけだが、徐々に枝が生え、桜の蕾がつき、体表は桜の樹皮のように変わってしまう。やがて人間の形のまま桜の樹へと変化し、一生散らない桜が花を開く。原因不明で治療法も見つかっていない。伝染病なのかどうかもよく分かっていない。ただ地域性のものではなく世界中のあらゆる場所で罹患者は見つかっている。
一度発症すれば桜になってしまうまで何もできず、ただ弱っていく姿を見ているしかない。そして完全に桜と化してしまったものの多くは焼却処分されることになる。因果関係ははっきりしていないものの、桜化したものを庭に植えておくとその近くで暮らしていた人間までもが桜病に罹ったという報告が何例もあることは確かだ。そうでなくとも原因不明の奇病で人々は恐れている。どの国でも厳しい管理下で処分されることが極められている。
だがそれでも元人間であり、誰かにとっては大切な人だ。その上、いくら桜になってしまったからといって生物学的に死んだ訳ではない。彼らは生きている。
そんな彼らの最終受入地がこの桜の森だった。
「ここでいいだろう」
桜の天井が少し切れ、青空が見えていた。
ミスギは台車からスコップを手に取り、それで足元の土を掘り始める。五十センチくらい下まで穴を掘ると、台車の上で白い生地に包まれていたそれをゆっくりと地面に下ろし、その覆いを取り去る。桜だ。ちょうど股のところで二本の太い幹が交差するようになっている。伸ばした手は枝となり、そこに三輪、桜が咲いていた。
彼はそれを恐る恐るといった手付きで立て、ゆっくりと穴に鎮めると、少しずつ土を掛けていく。
ミスギはこれが元人間だということは知っているが、それが男性なのか女性なのか、若いのか年寄りなのか、そういった情報は一切分からない。もちろん注文してきた人間に聞き出せば分かることだろう。だがそんなものは知らない方がいい。知ってしまったら、これはただの桜ではなくなる。それはつまり、誰かを葬る作業に似てしまうことになる。
誰かが彼を揶揄して言ったものだ――あれは桜守ではなく墓守だ、と。
水を含ませたジェルを根本にたっぷり載せると、ミスギは膝を突き、目を閉じてその桜の樹に手を合わせた。それから十六桁の番号だけが刻まれたタグをその根本に巻きつける。こうしておけばどの桜がいつ搬入され、ここに植えられたのかという情報を追うことが出来るし、ミスギ自身、どこに誰を植えたのかなんてもう多すぎていちいち覚えていられない。
少し日が傾き始めたのを背で感じながら、作業を終えたミスギはある場所へと足を向けた。背の低い丘を超えた先に見晴らしの良い別の丘があり、そこに一本、他の桜とはやや距離を開け、植わっているものがあった。
その桜の前にやってくると、そっと手を触れ、それからこう口にして、見上げた。
――姉さん。
それは桜病になった、彼の唯一の肉親だった。目を閉じると、ここに姉を連れてきた日のことが蘇った。
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