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 見上げた枝の先についていた桜は少年の頭上でまるで(ささや)きかけるように小さく震えた。花弁の枚数は六枚。普通のものより一枚だけ多い。流れ込んできた風が背を押し、少年は後ろを振り返る。けれど自分以外にこの場に立っている生き物はいない。あるのは少年と桜だけだ。しかも桜の方が圧倒的に数が多い。桜は風に揺られ、その微かに甘く優しい香りを周囲に漂わせる。見上げた天井は全て桜のピンクが(おお)っていた。奥にもそれがずっと続いている。  ここは桜の森。かつてであれば多くの観光客が訪れ、春という僅かな期間にだけ美しい花を咲かせる彼らを見て楽しんだだろう。だが現在では桜とは畏怖(いふ)の対象でしかなかった。しかも今は春ではない。  少し強く風が抜けたが、一枚としてその花びらは落ちてこない。何故ならここの桜は決して花を散らさないからだ。永遠に咲き続ける。だから、いつからかこの桜たちは「無限桜」と呼ばれるようになっていた。    少年はその桜の森の小路を奥へ奥へと、足早に歩いていく。やがてこの桜だけの森には不釣り合いなコンクリートの壁が現れた。少年の背丈の三倍、いや四倍はある。そこに一枚の金属製の黒い扉が付けられ、古めかしい南京錠が下がっていた。作業着の胸ポケットから鍵を取り出すと、その鍵穴に差し込む。  鈍い音をさせ、錠前を外し、少年はその重い扉を横にスライドさせ、中に入った。  ここにも桜が植わっている。ただ森とは違い、ここにあるのはその一本だけだ。古い桜の樹がその枝を目一杯広げ、たった一本だけでピンクの屋根を作っている。その根本は清水に浸かり、その水がずっと、少年の足元まで広がっているので、まるで湖に浮かんでいるかのように見える。その湖面に反射する桜が、風で左右に揺れていた。    ――風。    コンクリートの壁で(さえぎ)られているのに、この桜の花たちは規則的に揺れている。  少年はズック靴に水が染みるのも気にせず、歩いていく。  随分と太い樹は近くで見ると細いものが何本も絡み合い、それで一本の幹を形成している。表皮は桜特有の横にちぎれた縞模様で、その表面は白く輝いて見えた。  少年はその樹皮に触れる。温かい。それに耳を近づけると、すう、はあ、とまるで人間が呼吸をしているかのように中を空気が通り抜けているのが分かった。  木も呼吸をする。  植物の多くが光合成をしているのは知っているだろう。二酸化炭素と日光、それに水を使いエネルギーに変換する。けれどそれと同じくらい、呼吸もしている。呼吸とは酸素を取り込み、二酸化炭素として吐き出すということだ。  だから、だろう。  ここに来るといつも息苦しさを感じた。  いや。息苦しいのはそれだけが要因ではない。もう一つ別の、ひょっとするとそちらの事実の方がずっと彼にとっては重く、辛いものかも知れなかった。  と、少年の胸が震えた。ポケットに入っている受信機が震えたのだ。ここは携帯電話は使えない。そもそも近くにアンテナ基地がないし、ここで生活しようなどという奇特な人間も彼以外にはいないからだ。  少年は小さな溜息を一つ残し、この場から立ち去る。  また今日も、彼の仕事が始まる。
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