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「そりゃ、花は散るものだけど」
目を逸らしたまま、彼女は唇をゆがめた。
「早すぎるのよ、桜は」
二度と、毎年欠かさず愛でた花を見ようとしなかった。
〝来年の桜の頃に戻るから。結婚しよう〟
満開の並木の下で約束した彼が、ついに彼女のもとに帰ることのなかった春以来。
彼女は今か今かと待ちわびた。
方々に旅して仕入れと商いを行う彼を見送ったその日から。一年先に訪れる幸せな季節を。
例年は、少々感傷的に眺める桜の終わりも笑顔で受け止め、花の後に枝を飾る若葉を満足そうに見つめ、赤茶けてつと落ちる葉をいとおしそうに掃き集め。
灰色の空の下、まとうもののない幹と枝を震わせて過ぎる木枯らしの中でも、首をすくめることなく、思い出の並木道を歩く。次はいよいよ待ち焦がれた季節がやってくる。期待が頬を上気させ、春夏秋冬、胸の中に抱き続けた想いは大輪の花となっていた。
「つぼみが開いてる!」
先ほど門を出たばかりの彼女が、息せき切って屋敷に駆け戻った。
「咲いたわ!咲いたの、もうすぐエランが帰ってくるわね。明日かしら、明後日かしら、ひょっとして今日?もう近くまで、来ているのかも」
慌ただしく再び並木へ走り出し、向こう端から首を伸ばして町から屋敷へ上る坂道に目を凝らす。
咲き始めると桜は早い。五分、八分、左右両側から並木道にかかる薄いピンクの花の屋根はやさしく膨らんでいった。
過ごしやすくなる陽気につられて満開を迎えると、早く咲き切った花からひとひらずつ並木の間を舞いおり始める。
「遅いわね。エラン。もう戻ってきてもいいのに」
彼女は首を傾げる。
「一人暮らしのおばあちゃんに代わりに買い物頼まれたりしてるのかしら。断れないのよね、人が好いから」
今日か明日かと待ち受ける彼女を置いてきぼりに、盛りを過ぎた桜は吹雪のように散っていく。山から風が吹きつけるたび、雨が桜に降り注ぐたび、はらはらして彼女は呼びつける。
「なんとかしなさいよ、アッセ!」
ぼくは従僕として、お嬢様の仰せに逆らうつもりはないし、デキる従僕を自負してもいるのだから、桜の季節を保持したい、その願いをかなえたいのはやまやまだったが、自然の摂理には抗えなかった。
「何かあったのかしら」
眉を曇らせて、お嬢様は毎日郵便局へも出かけていったが、彼から便りの一つもないまま、木は葉桜になり、並木道の足元を彩った花びらのじゅうたんも、風がきれいに吹き流して片付けてしまった。
「どうして――」
大きな瞳いっぱいに、待ち人の現れなかった並木道を映して、彼女は立ち尽くした。
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