十二月十六日(金)

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「ここから先は、学園長の私邸になります。それと、学校がないときの私たちの私邸でもありますね。普通の見学者の方は、職員用の寮にある客室に泊まっていただくのですが、今回は私たちの交流が目的ですから」 「わかりました。ありがたくお邪魔します」 「追々学校の方にもご案内します。まだ授業のある期間ですから、授業の様子は明日お見せしますね」  そう言って、慎一郎は少しだけ窓を開けて左手を外に出すと、持っていた小さなリモコンを門扉に向けて操作した。すると、閉まっていた門扉が音もなく開いて三人を迎え入れる。  車ごと中に入ると、そこは広い庭になっていた。  周囲を森と山に囲まれた、外界から隔絶されたような場所だった。石造りの塀と鉄柵で囲まれた広々とした敷地内に、意外とこぢんまりした、落ち着いた雰囲気の洋館が建っていて、その前は広い庭になっている。  冬枯れてはいたが、美しい庭だった。  門から続いて屋敷へと向かうものと、庭をぐるりと一周するふたつの道が、細かい色石で敷かれている。その周辺には様々な植物が植えられていて、まるで野生の野辺をそのままここへ持ってきたようだ。  だがそれは決して、手入れが悪いというわけではない。敢えて野辺のままのように見せているのだ。その証拠に、ところどころに備えられたベンチや四阿などはいつでも使えるよう、居心地の良さそうな様を保っている。 「兄さん、川があるよ!」  驚いたように指摘する翔の言葉通り、庭には川が流れていた。しかもそれは、庭を作るために敢えて流したものではなく、どうやらもともとそこを流れていたものらしい。車から見える場所は、広さも深さもかなりのものだ。 「川の中洲のようになっている所が見えますか? 四阿のある場所です。あそこは島になっているんですよ」 「えっ、島?」  外の景色に目を輝かせる翔に、慎一郎は丁寧に教えてくれる。彼は驚く翔に、優しく微笑んだ。 「良ければ、見てみますか?」  慎一郎の誘いに、翔はさらに目を輝かせて彼と、運転席の兄を見る。照之はバックミラーの中で苦笑してうなずいた。 「車を駐車場に入れる間、庭を自由に見ていて構いませんよ。あとで迎えに来ますから」 「ありがとうございます!」  翔は元気よく頭を下げると、シートベルトを外してドアを開け、するりと外に飛び出した。  冷たい空気の中、翔は灰色の砕石で舗装された小道を軽快な足取りで歩き出した。  庭の中は、実際に歩いてみると、全体を見わたしたとき以上に広く感じる。丈の高い草や、効果的に配された木々のお陰で適度に視界が遮られ、庭全体の広さの目測が効きづらくなっているのだろう。  翔はちょっとした森のようになっている小道を、周囲の眺めを楽しみながら、ほっそりした足で、跳ねるように歩いていった。  しばらく歩くと、周囲の木々が途切れ、車の中からも見えていた川のほとりに出た。覗き込んでみると、驚くほどの深さと水量がある。しかも流れる水は、驚くほど澄んでいた。滔々と流れるその水は、しばらく行った所で二股に別れ、その場所に、慎一郎の言った島がある。  そこは、本当に言葉通りの島だった。川の中洲のような場所で、周囲とは水で隔絶されている。そこに小さな橋がいくつか架けられて、周囲との行き来ができるようになっているのだ。  翔はその眺めにわくわくしながら橋を渡り、四阿のある場所まで行ってみた。  古びた、白亜の四阿であった。  周囲には蔓薔薇の植込みが配され、それが柱の低い位置に巻き付いていて、そのおかげで余計に長い年月を経てきた趣が増している。翔は近くでそれを見上げて、感嘆のため息をついた。  彼は古く、こうして植物に彩られた建物を見るのが大好きだった。遥か昔からそこに存在するうち、自分の知らない長い時間を経てきた建物が、その間にどんなものを見聞きし、どんな時を過ごしてきたのだろうということを、想像するのが好きだったのだ。  四阿の周囲には蔓薔薇以外にも様々な植物が植えられている。きっと春になれば、ここは花園に変わるのだろう。楽園のようなその眺めを想像して、翔はうっとりした。それはまるで、誰からも忘れ去られ、外界からも隔絶された、秘密の花園のような光景だった。 「誰?」  突然後ろから話しかけられて、夢の世界で遊んでいた翔は、飛び上がるほどびっくりした。  咄嗟に振り返る瞬間に、指先に熱い感覚が走る。どうやら四阿の周囲にあった蔓薔薇の棘で傷付けてしまったようだった。  思わず手を持ち上げて指先を見ると、思いの外深く切ったらしい。指先から溢れた血が玉となって、流れ落ちようとしていた。  指先を口に入れて血を舐めとろうとした翔を制して、白い、小さな手が翔の手を取る。驚いて翔が顔を上げるとそこに、ひとりの少女がいた。 「蔓薔薇で切っちゃったんだね。たまにあるの、こういうの」  翔を見つめて、彼女は優しく微笑んでそう言った。色白の頬を、冷たい外気に紅潮させている。  彼女は翔の指先を、煌めくような黒い瞳で丹念に改める。そしてそれを隈取る、長いまつ毛。可愛らしい小さな鼻に、花びらのような、珊瑚色の唇。  そういったものに見入っていた翔は、彼女突然顔を上げて翔と目を合わせたので、飛び上がるほど驚いた。 「痛い?」  翔は、踊り狂う内心と心臓を隠して大きく首を振る。その目の前で、顔を上げた彼女の腰ほどもある黒い髪が、瑞々しい艶を伴って、絹糸のようにさらりと肩の上を流れた。なんてきれいなんだろうと、翔は思う。  答えない翔を、少女は大きな瞳を瞬いて見つめてきた。わずかに寄せた眉で、心配してくれていることがわかる。 「へ、平気! こんなの、怪我のうちに入らないよ!」  本当は結構痛かったが、思わず強がってしまった。今はどうしてか、弱いところを見せたくなかったのだ。  彼女はほっとしたように微笑む。その優しい笑顔に、翔の心臓がまた大きく跳ねた。 「でも一応、血が止まるまで押さえてて。これ、あげる」  何かがふわりと、痛む指先を優しく包んだのを感じて、翔は視線を落とす。すると小さな優しい手が、翔の指に真っ白なハンカチを巻いてくれているところだった。巻いたばかりのハンカチの白に、わずかに血の赤が滲んでいた。 「えっ、だ、だめだよ、汚れちゃう」  慌てて外そうとする翔の手を両手で包んで、少女は笑う。不意に感じた柔らかさと温もりに、翔の心臓が今度こそ口から飛び出しそうになった。 「長命種でも、傷付かないわけじゃないよ。切ったら痛いし、痛かったらやっぱり辛いの。傷が深すぎるとちゃんと治らなかったり、死んじゃったりすることもあるんだよ。だからちゃんと大事にしてね」  そう言うと、彼女は手を離して微笑み、ふわりと翔から離れていく。 「あ、あの……君は……」  真っ赤になって言い淀む翔の耳に、その時足音が聞こえた。振り返ると、兄と慎一郎の二人が、ゆったりとした足取りでやってくるところだった。 「どうしたんだ、翔。ひとりで突っ立って」
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