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翔の方に歩み寄ってきた照之が、弟の頭にぽん、と手を置いてそう言う。少女には気付かなかったらしい。翔はその言葉に思わず周囲を見回したが、そのときにはもう、そこには誰の姿もなかった。
「うん? 何かあったのか? その指はどうしたんだ?」
照之は早速、弟の細い指に巻かれた白いハンカチに気付いてそう言う。
「あ、これは……」
「怪我をしたのか? 見せてみろ」
そう言って、照之が翔の手を取ったとき、翔は咄嗟にぱっと手を引っ込めてしまった。
「翔?」
怪訝な顔をする照之に、翔はぶんぶん首を振ってみせる。
「だ、大丈夫! もう治ったから! もう全然痛くないし!」
首を捻る照之の前で、翔はハンカチを巻いた手を体の後ろに隠した。兄に見せて、このハンカチを外されてしまうのが嫌だったのだ。もう少しだけ、このままにしておきたかった。
「顔もなんとなく赤いな。熱でも出したか?」
言って、両手で翔の額や頬を触る照之に、翔は頭を振ってその手を外そうとする。
「へ、平気だよ! 寒いからそう見えるだけ!」
「そうか?」
と言いながら、照之は弟の、さらさらの、少し色素の薄い前髪を持ち上げたり、白い頬を挟んで、いつもより熱くないかを確かめようとしている。翔は懸命に、そんな兄の手から逃れようとしている。
そんな二人を微笑ましげに見つめていた慎一郎は、改まった調子で二人に声を掛けた。
「冷えてしまいますから、そろそろ中に入りましょう。もう夕方ですから、気温も下がってきますし、翔君の指も、診ておいた方がいいでしょう」
「ああ、そうですね。すみません、お時間を取らせてしまって。それにしても、見事なお庭ですね」
「ありがとうございます。先代の学園長がお造りになったものだと聞いています。これから入っていただく屋敷もそうですね」
そんなことを話しながら小道を辿るうち、屋敷はすぐに目の前に現れた。
特徴的なのは二本ある石積みの煙突で、これはおそらく暖炉用のものなのだろう。そして全体を見ると、平屋の部分と二階建ての部分に分かれている。
屋根は青い瓦葺の、勾配が緩やかな切妻造りで、白い壁は、端の部分だけがレンガで装飾されている。
「素敵なお屋敷ですね」
照之と同じことを翔も思っていた。目の前の屋敷は、大きく立派な造りであるにもかかわらず、家庭的な印象を強く受けた。それは住人たちが自分の手で丹精したらしい植物の鉢植えが、ところどころに飾られているからに違いない。そのほかに、手造りと思しい手すりや、庭の柵など、よく見てみれば随所に、住人たちが手をかけた跡があった。きっと日常的に、皆がこうし家を整えてきたのに違いない。
照之と翔は更に慎一郎に案内されて、屋敷の中に入る。その瞬間二人は驚きに呑まれた。
広い玄関ホールは天井が二階までの吹き抜けになっている。木を多く用いた室内は、大きな窓から外光が十分に取り入れられていて明るい。
内装もかなり立派なものだった。長い時間をかけて磨き抜かれた床が飴色の艶を放ち、チョコレート色の腰板と対比を為すような白い壁には、壁掛けの蝋燭を模した灯りがたくさん灯されている。
二階へ向かう階段はホールをぐるりと取り囲むように伸びており、それを目で追っていくと、高い天井から吊られたシャンデリアが目を引いた。
「すごいお屋敷だね」
驚きのあまりそれしか言えない翔に、照之も相槌を打つのが精一杯だ。
その後、屋敷の立派さに呆然としながら客室まで案内された二人は、今夜の夕食時に食堂で皆と引き合わせます、という慎一郎と別れて、ようやっと腰を落ち着けたのだった。
その夜、夕食の席で照之と翔は慎一郎以外の屋敷の住人と引き会わされた。
大きな石造りの暖炉が目を引く食堂の大きな会食用テーブルについたのは、照之と翔を含めて全部で六人いた。しかし、先ほど照之と翔を案内してくれた慎一郎は、二人を席まで案内したあと、姿を消してしまっている。
更に、この家の主人の席であると思しき、大きな暖炉の前の席も、誰かが席につくための支度が整えられているにも関わらず、空席だった。
だが、翔はそれよりも、向かいに座った少女のことで頭がいっぱいだった。先ほど庭で出会ったあの少女が、ほかの住人たちと一緒に席に着いていたからだ。
彼女は、食堂に入ってきて、翔がいるのに気付くと、にこっと笑ってくれた。そのまま翔の斜向かいの席に腰掛ける。それに対して、その隣に座った別の少女が訝しげな顔で何か言おうとしたとき、食堂の扉が開いた。
入ってきたのは慎一郎だった。だがひとりではない。両手で車椅子を押している。
車椅子に座っているのは、小柄で細身の、端正な顔立ちの青年だった。スーツのズボンとシャツの上に、暖かそうな藍色のセーターを着て、ループタイを着けている。やわらかくウエーブのかかったこげ茶に近い色合いの髪が一筋、目の脇に流れている。
照之とほぼ変わらぬ年代に見えるのは慎一郎と同じく、長命種だからだろう。本当の年齢はまったくうかがい知れない。
そして何より印象的なのは、儚げな微笑みを浮かべた、深い、晩秋の陽光にも似た光を持つ、その目だった。
吸い込まれそうなほどに深く黒いその目には、限りない優しさが内包されている。そこにほんのわずか、悲しみの色を見た気がして、なぜか翔は胸を衝かれたような気持ちになった。
「照之さん、翔君、食事の前にご紹介させていただきます。こちらがこの天星学園の学園長である、里見怜先生です」
慎一郎の言葉を引き継ぐように、紹介された青年がふわりと微笑む。それは、ふとした瞬間に消えてしまいそうな、危うげな笑みだった。そのせいか、後ろに立つ慎一郎はどこか気がかりそうな眼差しを、車椅子の上の青年に向けている。
「里見怜と申します。少し体を悪くしているもので、車椅子のまま来させていただきました」
穏やかで柔らかい響きを持つ、美しい声だった。中性的で、何かの旋律のようにも思えるその声に、翔は思わず瞼を伏せて聞き入る。それほどに、心地よい声だった。
「ご病気なのですか? それは、大変なときにお邪魔しまして、申し訳ありません」
「いえ、病気というわけではないのです。ただ、昔負った傷の影響で、体に力が入らなくなって、倒れてしまうことがあるのです。立っているときにそうなってしまうと危険なので、車椅子を使っているというわけです。どうか、お気になさらず」
「そうでしたか……滞在中、我々にお手伝いできることがあれば、協力させていただきます。どうか遠慮なく、おっしゃってください」
「ありがとうございます。であれば……というわけではないのですが、照之さん、食事が終わったら、私の部屋へいらっしゃいませんか。お父様のことで、少しあなたと話してみたいと思いまして」
そう誘いかける里見は、儚げでありながら磁力に満ちた笑みを浮かべている。翔が自分を見上げているのを感じ取った彼は、思わず彼と顔を見合わせてからうなずいた。
「はあ、そういうことでしたら、あとでお伺いします」
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