海に上がる泡に桜を舞わす

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桜の樹の下に屍体を埋める。 これが僕の仕事。 何度も掘り返された土は柔らかくて軽い。さくりと入ったシャベルを、踏みつけてさらに奥まで入れる。掻き出した土は小さな山となったけど、まだまだ穴の大きさは足りてない。 季節は冬を過ぎたあたり。明け方とはいえ暖かくなってきたはずなのに、動くのをやめた途端に指先から震え出す。 考えちゃだめ、止まっちゃだめ。ただ何も考えずに穴を掘る。そうでもしないと、意味も考えないまま恐ろしいことを叫び出してしまいそうだった。 「まだ、まだ小さい。じいさんは、もっと。まだ、足りない」 掘って、掘って、掘って。 大丈夫、穴の大きさなんて一人で測れる。まだ小さいよな、僕にはわかる。そろそろかな、いやもうちょっと。 そんなことを口にしながら、本当はもう十分な大きさだと気づいてた。高さだって腰まであって、こんなに深く掘ったことがない。低い位置から見る景色は普段と少し違ってて、なんだか全てが大きく見える。ふと家の方を見れば座る人のいない椅子が静かに揺れてて。 いつまでも、埋めたくなくて掘り続けていたことを自覚した。 どさりと落とした死体は、大きすぎる穴のせいで小さく見えた。絡ませるために触れた両手の指は太くて固くて、僕も将来こんな風になるんだろうなって。全然嬉しくないことだけど、桜を好きだったじいさんは誇りだと言って小さく口角を上げるんだろう。 最近は全部僕にやらせていたくせに。枝より細いと評した僕の腕に筋肉がついたことをあの人は気づいていたのかな。いつまでも子ども扱いして、って気づけば恨み言ばかりだ。 お別れに感謝だけ告げて土を戻す。日はまだ高くて、けれどここにも家にも温もりはない。見上げた視界に入ってくる桜は明るく輝いて憎たらしい。 ならした土に手を合わせて目を閉じれば、寒さ静かさが苦しいほどで、さっさと決まり文句のご冥福を祈る。深呼吸は、一度。何か言わなきゃいけない気がして、それがわからないから手を下ろして目を開けた。 空っぽの家に歩を進めて、考えるのは今日のこと。 二人で食べるつもりだった蓄えをどう消費しようか。お風呂はシャワーで十分だな。布団とか全部洗わないと。洗ってどうするのか、なんて先のことは考えない。 ガラガラと玄関引戸を動かせば、中には汚れたサンダルが転がっていた。揃えて置き直して、隣に自分の靴を並べる。こんなのいつものことなのに、その大きさの違いに息が詰まった。 何か見るたびにそんな感じ。座り込んだら動けないだろうなって、食べるつもりもないのにただの習慣でご飯を作る。朝は抜いてしまったし、昼も少し過ぎている。遅れた昼飯と早めの夜ご飯を一緒にして、今日はさっさと寝てしまおう。 そう思ったのに、ただ炒めることすら嫌になって火を消して。もういいやって寝ようと入った自室の窓から桜が見えた。カーテンを閉めたら目の前が真っ暗になって、時が止まったような空間で立ち尽くして。 僕はその時、どうしようもなく独りだった。 その死を祝うかのように咲きほこる桜を、この町の人は天国への通り道のように信じてる。 僕が施設からじいさんに引き取られたのは五年前で、教えられたのはお悔やみの申し上げ方と埋葬の流れ。人でも鶏でも金魚でも、持ち込まれた死体は何でも埋めて、翌日には桜の下という場所を貸す。 どの樹より大きな影を作り、風に乗って町まで花びらを飛ばす桜を相手に、彼らは花見をするのだ。祈りを捧げる代わりといって。お別れの儀式なんだと。 「綺麗だね」と客は言いあう。「きっと天国で笑ってるね」と。 それを聞き流しながら家の中で花見の終わりを待つ僕に、「ありがとう」と声をかける人がいる。桜を嫌う僕にはそれを慕う彼らからの感謝が居心地悪くて、じいさんの言葉少なに見守ってくれる距離感が好きだった。 そんな、じいさんとの思い出流れるベッドの上。寝てるんだか起きてるんだか分からないような時間を過ごして、外から聞こえてきた音に目を開けた。 起きてカーテンを開けば、空を覆うほどの桜。窓を開けるなり風とともに数枚の花びらが飛び込んできて、視界の隅に薄桃が落ちる。そんなことで、じいさんにもう会うことはないんだなって、そんな気持ちが腹の底にストンと沈んだ。 「埋める子! これ、おじいさん……?」 「……はい。花見ですか?」 集まっているのは見慣れた人ばかりだった。 誰も死体を届けていないのに咲いた桜は、町の人にじいさんの死を知らせたらしい。 お客さんの目は言葉を選んでか左右に上下に少し揺れてて、それなのに、話す時にはしっかり僕を見つめてくる。 「そう。そうね、みんな花見に来たの」 「そうですか。いつも通り、ゴミは持ち帰りで、料金は根元にお願いします」 よかったなと、素直に思う。じいさんは、僕が思っていたよりたくさん想われていたようだ。 いつもなら閉めてしまう戸を少し開けたまま壁にもたれる。隙間を通ってきた風が中の空気をかき回して、少し息が楽になる。控えめな笑い声は日常の雑音に溶け込んで、僕はいつの間にか眠っていた。 起きたら夕方。延びてきた日のおかげでまだ明るい空が、徐々に赤に染まる頃。人気のなくなったその場所に、彼女はいた。 きらきらと光を弾いてみえる金色の髪に、青と緑が溶けて絡まったような紺色の目。薄く広がる青空の下で、彼女はひらひらと舞う桜に手を伸ばしていた。両手の間をすり抜けた花びらを追いかけてしゃがんで、立って回って座って跳ねて。そんな彼女の幸せそうな顔といったら、散っている桜が綺麗に見えてしまうほど。 「花見ですか、埋葬ですか」 僕に気づかない彼女に近づけば、自然と桜の影に入る。落ちてきた一枚を手に取って、なんとなく持ったまま彼女に尋ねた。 よく動くその人は荷物を持っていないようだけど、ポケットからカマキリが出てくることだって珍しくないし、何よりじいさんの花見客とは思えなくて。そうして声をかけた僕に、彼女は笑顔で答えた。 「私、桜を見にきたんです!」 元気だなあって、たぶん僕も笑ってた。 「花見ですね。ゴミは持ち帰りで、料金は桜の樹の根元にお願いします」 その勢いに話の噛み合わなさを感じながらも、僕にできる返事はこれだけ。いつも通りに家で客の帰宅を待とうとして、けれど彼女は客じゃなかったらしい。 「あの、私、桜を見るためにここに来たんです」 「はい。特に時間の制限はありませんので、ご自由にどうぞ」 「海から来たんです。ずっと、海から見てて、ようやく来れるようになって。だから私帰る場所がなくて、ここなら住まわせてくれると思って」 それで、その、って彼女はつたなく言葉を続ける。意味がわからないと突っぱねたくなるのを我慢して、じいさんの知り合いかと尋ねたらそうではない。どういうことだと聞いても桜が見たくてとしか返ってこない。 「だから、それならどうして桜を見に来たんですか」 「どうしてって、だって、綺麗だったから。海から顔を出して最初に目に入るの。薄い色がぽつんとあって、何より目を引いて、空と一緒に色が変わるの。本当に綺麗なんだよ」 桜の綺麗さを主張されて、そうじゃなくてと言いたくなる。弔いのために訪れる桜を、ただ鑑賞しに来る意味がわからない。それでも客は客なわけで、お好きにどうぞと言っているのに。 「それで、もう死ぬまで海に帰れないから、私帰る場所がなくて」って。必死な様子に、嘘とは思えないのがまた困る。 「帰ればいいじゃないですか。海近くの町なんですよね、帰ってまた来ればいいじゃないですか」 「町じゃなくて海です。私、人魚だから」 「…………人魚」 「はい」 頷く彼女を見て、もう一度「人魚」と呟く。咄嗟に足に目をやって、二本あるよなって確認。肌に鱗がついてることもなく、人間だよなって思いながら「人魚」ってまた声が出る。 「帰れないんです」 何より嘘くさい発言なのに、なぜか何ひとつ嘘とは思えなくて。 そうですかと、僕は答えた。 『なんでそんなに桜が大事なの』 じいさんに、一度だけ聞いたことがあった。 『……昔、これを見るためにここに来た生き物がいた』 返ってきた答えはそれだけで、じいさんがその誰かを大事に思ってることはわかったけど、生き物という言葉が引っかかってた。だから僕は昨日隣に座って花見を始めた彼女を止めなかったし、今こうして二人分の夜ご飯を作ってる。 食べれないものを聞いた僕に「なんでも食べられます!」と彼女は身を乗り出して、「人間になったので!」と嬉しそうに付け加えた。本人が言うならいいだろうと肉も遠慮なく使って、一昨日買った野菜と炒める。 「これが料理? 今料理してるの?」 「はい」 「うわあ水だ! 水が出てます!」 「そうですね」 「そのふわふわはケーキですか?!」 「洗剤です」 「あっお水飲まないと! お水飲まないと人間って死んじゃうんだよね、お水もらってもいいですか?」 「ご自由にどうぞ」 靴の脱ぎ方も知らないのに、ケーキは知ってる人魚さん。偏った知識だなあって、蛇口から水を直飲みしようとする彼女を止める。プラスチックのカップに入れて差し出した水を、これまた感動した様子で彼女は飲む。これが地上の水かあって、何かを納得した様子。 「人間になったんなら、海の水は飲まない方がいいですよ」 彼女は分かりましたといい返事をして、もう一杯、地上の水を飲み始めた。 ご飯が炊けるまで三十分、味噌をとかしながら、じいさんいないのに作りすぎたなって少し反省。いつもなら炊き上がりを待って本を読む時間は彼女の質問感想コーナーになって、よく動くと思ってた彼女がよく喋ることを知った。 ピーッと炊飯器から通知の音。けれど彼女の言葉は止まらない。 「今のは何の音ですか?」 「ご飯が炊けた音です」 「ご飯! 炊けるのはお米ですよね、お米!」 だから僕は、本を読ますことにした。 じいさんの集めていた本は図鑑のようなものが多くて、地上初心者にはうってつけ。読んでる様子もないのに丁寧に保管しているのが不思議だったけど、この状況が答えなんだろう。 「好きなものをどうぞ」 「桜の本がいいです!」 言うと思った、とは言わないけど。 すでに手に取っていた写真集と植物図鑑を彼女に渡す。見覚えのある花図鑑と桜図鑑を探しながら、それにしても、と早速写真集を開いて目を輝かせている彼女を見る。 人魚っていうのは、みんな桜が好きなんだろうか。 本に夢中の彼女は「ご飯食べますか」という僕の質問に、間をおかずに顔を上げた。「食べます!」という元気のよさに笑ってしまって、注いでいた緑茶がぼちゃんと音を立てて波打った。 「いただきます!」 「……いただきます」 よく知ってるなあと思えばいいのか、地上も海中も文化が同じなのか。気になるけれど聞くほどでもないことばかり。 箸を使うのは難しいようで、何度目かのチャレンジ失敗で彼女は悔しそうにスプーンに持ちかえた。用意しておいてよかったと思いながら、箸の使い方を教えるべきか、食卓にスプーンだけを置いておくべきかの答えが出ない。 じいさんは、どうしたのかな。僕の使ってる箸も皿も、昔は誰かのものだったのかな。 そんな意味もない思索ばかりを、昨日からし続けている気がする。 どうやら、彼女は文字もちゃんと読めるらしい。 「ねぇ、桜は春に咲くんだよね。あれ、桜じゃないの?」 翌朝、図鑑を片手に外を指差して、顔を合わせるなり始まった質問。僕は咄嗟に答えられなくて、誤魔化すように挨拶をした。 「おはようございます」 「あっ、おはようございます」 「ご飯食べますか」 「食べます!」 おはようも知ってるんだ。言い慣れてはなさそうだけど。 なんてことを考えながら、作った朝食を机に並べる。昨日と同じように箸もスプーンも並べれば、彼女はまず箸を取った。持ち方くらい教えた方がいいのかなって、考えてる間に箸は置かれてスプーンに。 日常生活に関する本も、どこかにあった気がするなあ。 桜が好きと言いながら好奇心旺盛で渡したものは何でも読みそうな彼女なので、机に積んでおけば読むだろう。自分がここに来たばかりの頃に読んだ本たちを思い出して、まずは何をと考える。ただ、それらのどこにも彼女の質問への答えは載っていないから。 「桜ですよ。狂ってるけど」 それだけ答えて、狂ってる? という彼女の呟きには聞こえないふりをした。 そんな彼女は、質問こそなくならないものの、少しずつ落ち着いて静かになった。ご飯食べますか、に対する答えだけは変わらず元気いっぱいだけど。 じいさんが死んで一週間。彼女がやって来て六日。家族ではない話し相手はなんとなく僕の生活に馴染んで、それが逆に変な感じ。彼女はいつまでいるのだろうかって、たまにその先の一人ぼっちを考えては目を閉じる。 じいさんのものを、ひとつずつ一部屋ずつ整理して。捨てられないものと同じだけ、捨てるものが積み上がっていく。彼女は本を読みながら、そわそわと、たまに窓から桜を眺める。そうして、「咲かないね」って僕に言う。 「いつになったら咲くのかな。次の春かな」 「分かりませんよ。狂ってるんで」 「そっかあ。蕾も可愛いけどね。咲いてるのもまた見たいなあ」 満開の桜を思い出してか、目を細めて彼女は笑った。 その桜の樹の下には屍体が埋まってるんですよ。と僕が言ったとして、それでもこの人は、桜を綺麗と眺めるだろうか。 知られたくないなと思って、どこか小さく罪の意識がわいた。 それからさらに三日。チャイムを鳴らしてやって来たのは見たことのある町の人。 小さな両手で握り込まれた、その手より大きい箱を差し出される。受け取ったそれは冷たくて、中身を確認すれば鳥の死体が布の上に。 「ご愁傷さまです」と預かれば、お孫さんは僕の言葉を聞いて泣きだして、おばあさんは彼の頭を撫でながら僕に礼して帰っていった。 嫌だなあ、と思ってしまう。 死体を埋める時、そうして桜が咲くたびに、僕は憂鬱な気持ちになった。見えない悪夢の中にいるような、誰かの悪夢を作っているような。 けれど今日はそうではなくて。 シャベルで小さな穴を掘って、布ごと取り出した死体を埋める。手を合わせてるうちに何となくじいさんを思い出して、立ち上がっていつも彼が座っていた椅子を見た。誰もいないはずのそこには金色の髪のなびく彼女がいて、彼女はただじっと、桜ではなく僕を見ていた。 嫌だなあと思った。暴かれてしまったと感じた。 明日、桜が咲かなければいい。いっそ枯れて仕舞えばいい。この乱暴な願いが、信じてもいない神に届くとは思わないけど。それでも願わずにはいられなかった。 翌日、待ちわびたはずの花開きを、彼女は静かに眺めてた。 僕はといえば、見慣れたはずの満開の桜が先日の桜に重なってしまって。考えずとも浮かぶ、じいさんとのいくつもない会話と変わり映えしない日常の記憶。続けて呼び起こされたのは、雨のように降る花びらの下、一人ぼっちが二人になった花見。 何故かもう、桜は怖くなくなっていた。 花見客は話弾ませて、お孫さんは小さいボールを持って走り回る。きっと鳥用のおもちゃなんだろうなって、昨日泣いてた子が笑うのを見る。 「私ね、埋める人のことは知ってたの」 話を始めたのは彼女の方だった。 「人間になるって決まった時に、前の桜の子の日記を読んでね、そこに書いてあったの。桜の家に住んでいて、地上を教えてくれた人だって。……どうして埋める人なんだろう、何を埋める人なんだろうって思ってた」 死体を埋める人だったのね、と彼女は悲しそうに笑った。風に吹かれた桜がこちらにも流れてきて、彼女の髪にたどり着く。陽を散らす彼女の髪に留まった白が、儚く見えて心が揺れた。 「死体が消えて、花が咲くんだ」 恐ろしい化け物と思っていたそれに、みなが尊ぶ一端を見た気がした。 「そこで、天国へ行くのを見送るんだって」 それを聞いて、彼女は「いいなぁ」って言ったんだ。 僕が怖いよねって言うより先に、狂い咲きの桜とその下で笑う人たちを見ながら、それはもう羨ましそうに。 「いいかな」 「うん。私たちは泡になって消えちゃうから。……いいなあ」 「……泡に?」 「うん」 「…………そっかあ」って、出て来た返事は彼女みたいに語尾の伸びたものになった。 彼女が悲しそうに笑った理由が分かって、それを想像して僕も険しい顔になる。泡になって。消えちゃって。そっかあ、それは。 「それは、嫌だなあ」 「ふふ、そうなの。嫌だなあ」 「僕、また一人になるんだ」 そうして僕は、なるほどと思ったんだ。彼女が泡になるのを嫌だと思って、だから桜の下で笑う気持ちが分かった。 たぶん僕は、彼女がいなくなっても、花が開くたび彼女のことを思うだろうから。ただこれを見るために、ここに来た彼女のことを。 それならそこに彼女のカケラがあってほしいし、そのカケラを思い出して僕は笑えたかもしれない。じいさんも昔こんなことを考えたのかなって、今、桜に話しかけたくなったように。 「嫌だなあ」 僕はそれだけを繰り返して、悲しそうだった彼女は楽しそうに笑いだす。その目は、きっと僕の知らないどこか深い海の色。 ふと僕の顔を覗き込んできた彼女は笑うのをやめて、お姉さんの顔して僕に言う。 「埋める子は寂しいんだね」 そうじゃないけどって言葉は子どもみたいかと飲み込んで「そうなのかな」って答えたら、途端にふわっと泣きそうになった。目を覆った水分はすぐに引いて、けれどなんだか心が乾いてしまったような。 「海に行きたい」 言ってから、いい考えだと思った。 桜を見ても彼女がいないのなら、泡になった彼女に会いに、僕は海に行きたいと思う。 だから、きっとじいさんもそうだろう。 「……前の桜の子、嬉しいね」 「そうかな」 「そうだよ」 いいなあって、彼女は笑った。泡になって消えたいつかの人魚を思いながら、それはもう嬉しそうに、彼女は笑った。
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