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桜の木だけかは知らないけれど、老いた枝は緩やかに惑うのだという。狂うのかもしれない。校庭の桜は両親が卒業する頃から咲いていて、徐々に花を減らしているらしい。
けれど私はこのうねる枝ぶりの桜しか知らない。むしろ、この学校の桜以上にうねる桜を見るのが、怖いなと思うくらいだ。
来年からはここから桜を見下ろすのかと、私は三階の廊下から門扉に向かって咲くいくつかの桜を眺めていた。種類の判別もつかないけれど、少なくとも、八重桜、という名前ではなさそうな花である。花弁の数はきれいに五つ。花弁の奥が濃いピンクになったものから、はらはらと風に流されて飛んでいく。
私たちも、きっとそうだ。流されるまま、かたまりになったと思ったら散り散りになる。好きになったことに気付いたら、あんな風に、散らばってそのままではいられない。
――ああ、やだな。
――みんなと一緒は、いやだ。
はあ、と冷たいガラスに白い膜を張っていると、肩をとんとんと叩かれた。
「あーや?」
振り返るまでもない。私のことを呼んでくる生徒なんて知れている。
「……どうしたの。先輩たちまだ教室」
「もー……どうしたもないじゃん。最後の寄せ書き、渡すの綾のしごとでしょ」
私を呼んだのは、予想通り松子だ。私の幼なじみだった子。名前に似合わず、金髪ロングなのは父親譲り。日本語ぺらぺらな親のおかげで、髪色以外は完全に日本人だと聞いた。
純和風の名前と自分の顔が合わないことが不快だったのか、ノートや文具、果てはテストの名前欄までショーコと書くほどの徹底ぶりだ。
彼女の瞳の色は、真っ黒で、そこだけが不思議と落ち着くのだが、やはりからかう奴らはそうしてくる。私はそういう有象無象を蹴散らして、ヒーローぶっていたのだが、彼女が求めているのはそういう形のヒーローではなかったと後々知った。
「私が渡すより、ショーコが渡したらいいじゃん。最後だよ」
「……うん。でも次の部長は綾だよ。アナウンスしかしてない私が、先輩のとこに行っても……」
先輩はどちらかというとイベントごとの音響担当のひとだった。一歩間違えれば野球部みたいな丸刈りの姿で、裏方として各所のセッティングから当日の調整、実務、片付けまでありとあらゆる裏方仕事をこなしていた。
私は音源の準備とか、そういう部分で補佐していた。だから知っていた。ショーコの目は私へのいいなあと、部長への憧れをまぜこんだきらきらした輝きを放っていたことに。
その陰日なたに咲く姿にきゅんときたらしい。あと、ショーコの髪色のことについても触れなかったのだとか。曰く「それはアナウンスするのに関係ないから」と。だから、裏から声を出させるようにしていた、とか。
ぜんぶ、ショーコから聞いた話だけれど。
そうして、彼女の好意に気付くより先に、卒業してしまうほど鈍感なオトコなのだけれど。
「うん」
全力のどうでもいいを込めて二音を吐き出した。
私の仕事は、まだ終わらない。むしろはじまったばかりだ。
何を思ったのか、引き継ぎが終わらないからと部長と連絡先を交換してしまったのだ。ショーコには言ってない。言うタイミングはつまり横流しのタイミングだ。今ではない。
ちくちく、する。
とても、心が。
「綾はさ、さみしくないの」
ショーコは私のガタガタの気持ちなんかに気付くまでもなく、そういうことを言う。
「どっちかというと、なんだろう……部長って柄じゃないなって。先輩たちがいなくなった放送部、めっちゃさみしいとは思うけど……それより怖い」
「さみしいじゃなくて?」
「うん、怖い」
高校二年。私たちはまだ卒業しないけれど、部活の先輩たちは目を腫らしたまま、校庭や廊下で、しみじみと写真を撮っていた。私も連れられて何度か写真を撮った。女の先輩たちとも、男の先輩たちとも。
きもちわるかった。人に触れられるのは、特に苦手だ。苦手なだけで、例えばじんましんができるとか、そういう弊害がないから困りものである。だから、これは私の中では、触れていいか、悪いか、で考えるようにしていた。そうなると答えはひとつである。
――綾以外に触れてほしくない。
でも、こういう和気あいあいとした空気を作るためにそういうものと諦めている。気付いているひとたちは私に触れない。綾にも言っていない。むしろ、綾には気付かれたくない。このままでいい。
あのめんどくさい桜の木の下で、入学早々、切り落とされていなかった枝に腕を引っかけた。老木ゆえ、枝がうねった先が、風によってこちら側に向かって牙を向いてきたのだ。
たまたまその一部始終を見ていたショーコが、道も分からないまま保健室まで一緒に来てくれた。彼女が私の姿をみて百面相しているうちに気持ちが落ち着いてきて、私は彼女の髪色が桜の花びらと同化してキレイだと、言った。私は自分の言葉で赤面した彼女をみて、私は同級生のこの子を守らなきゃ、と思った。
それから、早二年である。
持って生まれた外見上の構造はどうにもならなかった。
私の身長は百六十には届いていない。男ではないから身体の構造上非力だ。筋トレをするにも正直体力はない。男とやり合うにはハンデがでかすぎる。一方のショーコは、ヒールを履けば百七十センチ。すくすくと育っている。
その後のことは、推して知るべし、である。
「綾、あのさ」
「……?」
「せんぱい、きた」
こそこそと小声で言うショーコが後ろ手に隠した色紙は、ショーコのデザインした「卒業おめでとうございます」がでかでかと書かれている。それだけで愛の力だなと思う。私は思わず目をそらして、外にある桜の木をみた。妖精だろうが幽霊だろうが、その桜の木の下にいる何かがいるのであれば、この状況、どうにかならなかったのか。
恨みがましく睨み付けたところで、それは物言わぬ木々のまま。風に揺らされてふわふわ、桜が散る。木の手入れをする人たちが広い忘れた枝はうにょうにょとしていて、気付かない間に落っこちていた枝が、なんだか人の指みたいでこわい、なんて下級生が言っていたっけ。
「綾、あの」
「うん、行こう」
「お願い」
「ショーコ、あんたが行くの」
「え?」
「ぶちょー! 卒業おめでとうございます!」
私は、ここ一番の全力で、ショーコの思い人に声をかける。その辺りにいたほかの部の部長らも振り返る。唯一ひとり、私の知っている先輩も、振り向いた。
「ショーコ、行って」
「ひえ」
「行くの!」
「う、うん!」
声だけで背中を押す。彼女は先輩の元へ、走る。走って、押しつけて、逃げ帰るでもいい。そうしたら私は、彼女に触れる口実ができる。
でも、そうじゃなかったら私は、あなたに触れない。指先ひとつ、重ねない。私はどんどん、息が詰まりそうになっていく。きっと部長も、私への好意などない。二人きりになることもなかった。だから安心して、私はショーコに場所を明け渡すつもりもある。
なのに、ざわざわする。
あの子に笑顔になってほしいとしたことで、泣きそうになっている。
私は、何がしたかったんだろう。なんであんな声まで出して。ショーコに連れられて、あまり目立ちたくないからとそういうポジションにいたはずだったのに。思わず私は、階段の踊り場まで逃げた。数分後、ショーコは私の隣に来た。真っ赤な顔をしていた。ちょっとだけ、涙のあともある。
「綾のおかげで、話せた」
「そう……よかったね」
「……うん!」
結局最後は、一言二言話せたらしい。私は彼女に触れていない。とんとんと、階段を降りる。二人分の靴底が、きゅっきゅっとゆれる。
「不思議だね」
「うん?」
「こんなに一緒にいたいのに、卒業しちゃう」
「私たちだって……卒業まで、あと一年だけど」
「だからだよ。先輩、大学って言ってた。ここから一時間もかかるじゃん」
すれ違う。私はショーコをみていて、たぶんショーコは先輩を見ている。私はそれに気付いてないふりをしている。多分、ショーコも、気付きたくなくて蓋をしている。
「一時間で来れるんなら近いじゃん」
「……遠い、よ」
ちょっと語気が強くなったことに気付いたのか、ショーコはしょんぼりとため息を吐き出した。ああ、現実に、なっちゃった。
一階まで辿り着いてしまった。
ここで靴を履き替えたら、おしまい。
でも私たちは、もう一度教室に行かなければならない。私たちのかばんはまだ二階にある。
「そっかあ」
私はまだ、あなたと終わりたくないなと思う。一年もあれば、ほかのことにのめり込んではくれないだろうか。去年のスピーチもいいところまで行った。アナウンス部門だって、もうちょっと、この地元の訛りを強制できたらいいところまでいける。私たちはただ応援しかできないけれど、その間の校内放送なら任せて、といえるくらいにはいろいろ、試すことが出来た。
だから、あなたはまっすぐ、だれの手も届かないところに行ってほしい。あの桜は、また腕を、指を伸ばしていくのだろう。根を引き抜かれない限り。来年その指はどこに辿り着くのだろう。
しばらくは私にも、彼女にも他者が触れないでほしい。
私は眼下の古株の桜を、今度は低いところから、じいと睨み付けたのだった。
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