プロローグ・・・第一章

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プロローグ・・・第一章

                                  終わりは、また新たなる始まりでもある。 神がこの大地に産み落とした1頭の名馬が天国へと旅立った。世界中の多くの人々に希望と絆という計り知れない財産を与えたその名馬の訃報に、世界中のホースマンが、競馬ファンが深く深く涙するのだ。そして、枚挙にいとまがない程の活躍馬を輩出した彼のお別れ会には、この大地を埋め尽くすほどの溢れんばかりの人々が世界中から訪れるのだから。   福島県にある広大なホースパークの一画に、一人の元ホースマンが佇んでいた。彼が眠るその墓碑には、その華々しい戦歴が刻まれ、G1勝利の証・・・黄金色に輝く九つの🌟マークが、昇ったばかりの朝日の陽光を浴び燦燦と耀き、その姿を模した等身大の馬像の彼は今にも天へと翔けてゆくかの如しであった。  私は、彼が世界中に旋風を巻き起こしたそのレースのすべてを思い返すことができる。11戦すべてを。彼とジョッキーが心を通わせ、ともに語らいながら世界中を走り抜けたその日々を。    ファイヤスターよ、永遠に眠れ。                                                   私はここにファイヤスターとすべてのサラブレッドに関わった数多くの人々の人生の交わりを記してみようと思う。私に競馬の素晴らしさを改めて教えてくれた彼らに、そして彼らを支え続けたすべての人々に敬意を込めて。 5a3fb6bf-52f6-4e3b-b8c0-3e5693a19514   第一章      金髪の少女 幼い金髪の少女が1頭の仔馬と戯れていた。 その幼い顔立ちには東洋系の面立ちが見えている。仔馬は、生誕確率的にも大変希少な白馬であった。フェニックスルージュと名付けられたその仔馬は、名牝である母馬のその名声を引き継ぐ宿命の下、競走馬としてのデビューに備える日々 を送っていた。  「さっきご飯食べたばかりじゃないの!」 仔馬は前脚でしきりにエサをねだる仕草をする。甘えたように顔を寄せるフェニックスと優しく抱きしめる少女。と、仔馬の長い舌が少女の顔一面を覆いつくした。  「キャッ、フェニックス!?」仔馬は笑ったかのようにブルルンと鼻息を鳴らす。  「ま、しっかり食べないとダービーに出られないからね、内緒だよ!」 少女は苦笑いを浮かべながら、飼い葉桶に燕麦とトウモロコシを調合した飼い葉を追加した。仔馬は一心不乱に飼い葉を食べ始める。少女はその元気な姿を見てにんまりと笑った  「エリー夕食よ!」 母の陽子の声に、今日は何かな?シーフードピザかな?ビーフシチューかな?それともミートパイ?想像を膨らませた少女は、「じゃあねフェニックス」と声を掛け、母親の後ろ姿を追いかけていく。  「パパ、来月ショーマが来るんだよね?ウチのお馬さんに乗るんだよね?」エリーがジャガイモとベーコン、ソーセージにとろとろチーズたっぷりのピザを頬張りながら、父のC・ウッドに嬉しそうに尋ねた。  「そうだよ。今日オーナーから連絡があって、3頭に騎乗してもらうことになったよ」ウッドがピザソースまみれのエリーの口元を拭きながら言った。  「やったー!」少女は満面の笑みを浮かべた。  「エリーはショーマが大好きだもんね」陽子が言うと、「うん!ママのピザより大好き!」とウインクをして二人を笑わせた。  フランスはノルマンディー地方のドーヴィル近郊。 ノルマンディー地方と言えば、パリから200キロメートル離れた海辺のリゾート地であり、海に浮かぶ世界遺産モンサンミッシェルやカマンベールチーズが知れ渡っているが、競馬ファンにとってはドーヴィル=馬産地!ここは譲れないところであろう。  ドーヴィルにはドーヴィル競馬場、クレールフォンテーヌ競馬場という二つの競馬場があり、かつてシーキングザパールとタイキシャトルが制したモーリスドゲスト賞、ジャックルマロワ賞というG1レースも開催される。街にはたくさんのブティックが並んでおり、夏になるとパリの人々が休暇に訪れるため、21区目のパリとの別名を持っている。なおかつ7月~8月には二つの競馬場いずれかでほぼ毎日レースが開催され、6つのG1レースを含む重賞24競争が開催される。述べ2000頭以上のサラブレッドが出走する、正にサラブレッド天国なのだ。  競馬に携わる者にとって、生涯一度は行ってみたい街ドーヴィル。 その近郊にウッドが経営するクリストフ牧場がある。セーヌ湾を見下ろすことのできる広大な牧場は、150年以上前にウッドの曾祖父が開場した。ウッド自身も幼少の頃から父に手ほどきを受けサラブレッドと格闘、コミュニケーションを取り続け、現在4代目として数多くのサラブレッドを競馬場に送り出していた。  ウッドが先程エリーに言った3頭とは、ウッドの牧場で生まれ育った競走馬のことである。デビュー2年目の日本のヤングジョッキーがフランスに10日間滞在し、レース後にクリストフ家に宿泊する事になっていた。ウッドもヨーコもその家族も非常に楽しみにしていた。どんな若者なのだろう・・・幼少期を養護施設で過ごしながらも、夢を叶えるために騎手になったのはこの世界では有名な話なのである。彼の初の海外遠征がフランスで、しかも我が家に宿泊するというのは正に光栄の至りというものであろう。 「ヨーコはサッポロ出身だから彼への思い入れも深いだろうね」 「そうね。札幌生まれの札幌育ちとしては、彼は誇りよね」陽子は温かいコーヒーをウッドに注ぎながら笑みを浮かべた。 「ね~、パパとママはどうやって出会ったの?」エリーの不意を突いた質問に、二人は顔を見合わせて笑いあう。 「さあエリー、明日は学校よ!歯磨きをしておやすみしようね」 「え~!?何でよ~教えてよ~!」エリーが頬を膨らませながら言った。 「言う事聞かないとショーマに言いつけるから。あ!」 「え~やだ~!?パパおやすみなさ~い」「エリーおやすみ。また明日」陽子とウッドが目を見合わせて苦笑いをする。  いつもはゲート審査を課せられた暴れ馬のような抵抗を見せるエリーも、ショーマという人参でどうやらおとなしくなったようだ。リビングというゲートを出て、母馬と手をつなぎ一目散に寝室というゴールへと駆け抜けていく。 a1401688-b3bb-4f1e-8b7e-21081929660b           出会い     二人の出会いは2007年、ドーヴィルに爽やかな季節の到来を感じさせる夏風が吹いた7月中旬の事であった。  ウッドが郊外にある大型スーパーでの買い物を終えた帰り道の途中、1台のSUVががエンストを起こしており、ドライバーの女性がたまたま通りかかった彼に助けを求めたのだ。  彼女は英語が堪能であった。が、日本人女性であった。 大学卒業を来春に控え、卒業旅行と称して2週間、ブルゴーニュからノルマンディー地方をレンタカーで巡っているとの事だった。 「私の父なら車の修理をしてくれるから」と彼は言って、彼女の車を牽引し、実家の牧場に連れて行った。  彼の両親は、東洋からの不意の来訪者ヨーコを大歓迎した。 ウッドは勿論、両親共に日本へ行ったことはないけれど、日本文化にとても興味があったのだ。特にウッドは職業柄ではあるが、近年の日本競馬が驚異的な進化を遂げていると感じていた。  一昨年はオークス馬シーザリオがアメリカに遠征し、アメリカンオークスを見事に制し日米オークス馬となる快挙達成、無敗で牡馬3冠を達成したディープインパクトに大いなる可能性を感じ、そのディープインパクトを唯一撃破したハーツクライは翌年のドバイシーマクラシックを圧勝、勢いそのままに挑んだキングジョージでも世界屈指の強豪と渡りあった。そして、本年の日本ダービーでは牝馬として64年ぶりの勝利を飾ったウオッカ。それはまだほんの1か月前の事・・・その衝撃は海を越え、ここフランスまで届いていたのである。  ヨーコは競馬にも精通していた。 父のバルザがウオッカのダービーの話をすると、彼女はにっこりと笑った。そして、財布の中から1枚の紙片を取り出した。それは馬券であった。ウオッカの単勝馬券。  「それはおカネに替えないのかい?」バルザが尋ねるとヨーコは笑った。  「これはお守りなんです」と言うと3人は口々に「それは素敵だ!」と言ってますますヨーコに興味を持った様子だ。  「ヨーコは今日どこのホテルに泊まるんだい?」母のローザが尋ねた。彼女がこの10日間好きな場所に行って適当な場所に車を停めてホテル代わりにしている事を伝えるとローザが、  「それはいけない!危ないからうちに泊まって行きなさい。部屋はたくさんあるわ!馬もたくさんいるけどね」と茶目っ気たっぷりに言い、4人は笑いあった。  「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます」  「じゃあディナーは盛大にしましょうね!ウッド、あなた、ヨーコをお部屋に案内してあげなさいな」とローザは言い、「さあ忙しいわ、パーティーよ!」とウキウキしながらキッチンへと向かった。  「私はヨーコの車でも見てこようかな。じゃあウッドあとはよろしく!」  こうしてヨーコのクリストフ家宿泊が決定した。  30頭ほどのサラブレッドが頭上からの太陽の恵みを浴び、広大な牧場を思うがままに駆け巡っている。眼下にはセーヌ湾、ドーバー海峡の向こうはイギリスだ。ヨーコはあまりの絶景に瞳を奪われていた。  「素敵な場所ねウッド!」  「うん、天国みたいだろう!ま、天国って行ったことないからわからないけどね」ウッドが1頭の若駒の首筋を撫でながら言った。  「アハハ!確かに!でも天国ってきっとこんな場所だと思うなあ・・・」セーヌ湾から吹き寄せる涼風が、ヨーコの艶やかな黒髪を心地よさげに揺らしている。  「そういえばウッドの家族ってみんな英語が話せるのね。フランス人はフランス語に誇りを持っているって聞いていたけど」ヨーコの問いかけにウッドが大笑いする。  「それはフランス人が英語が嫌いって意味かい?別に英語が嫌いなわけじゃないさ。そもそもウチは母が英国人だしね。何よりここは馬産地。世界中のホースマンが訪れる場所。英語が話せなけりゃ商売にならないからね」ヨーコは合点がいったようである。  「でも家族みんながバイリンガルって凄いわ!」ヨーコの前にも仔馬が集まり、遊んでくれとでも言っているように体を摺り寄せてきた。  「ヨーコだってそうじゃないか」  「ウチは父も母も日本語しか話せないもの」二人の笑い声に興味を持ったのか、仔馬達が次々と集まってきた。  「そうだ!明日さ、一緒に競馬場に行かないか?」ウッドがじゃれる仔馬の鼻面を撫でながら言った。  「うちの牧場で育った子がさ、明日新馬戦に出走するんだ!勿論馬券も買えるよ!」ヨーコは満面の笑みを浮かべた。  二人は何十頭もの馬達に囲まれてしまった  天高く、馬肥える夏?である。  フランス産ワインとチーズ、ピザとシーフードサラダ、鶏肉たっぷりのフリカッセ、食後のガトーバスクでヨーコの歓迎会を終えた翌日、クリストフ家一行とヨーコの姿はドーヴィル競馬場のパドックにあった。  それにしても、今朝の慌ただしさは大変なものであった。 生産馬の勝利の際に行われる口取式(勝利馬と関係者が記念写真を撮る晴れ舞台)の為に、すでに勝利を確信しているのか?3人は盛大にドレスアップをしていた。まさかそのような事態を想定していなかった彼女のために、バルザとローザは近くに住む親戚の娘達から3~4着のドレスを借り、これぞ!という一着を選び出して、彼女を見事な貴婦人に仕立て上げたのであった。  「馬券は買ったのかい?」 パナマ帽を被り、白麻のスーツ姿でバッチリ決めているバルザが尋ねた。  「はい」ヨーコが手に持っている馬券には、〈ムーランルージュ〉と印字されていた。エルメスのハットにオレンジ色のスカーフ、ブルーのシルクドレス姿のヨーコに、擦れ違う紳士はハッと息をのみ、淑女は「まあ素敵」と称賛し、笑みを浮かべ挨拶を交わす。  クリスチャンルブタンのヒールを履いたのは初めてだった。いつもと景色が違って見えるなあ・・・何だか恥ずかしい気もするけれどね。ヨーコは周りの華やかさに負けないようにファッションショーに出演する自分を想像して、勇気を振り絞りランウェイを闊歩していく。  「やあみんな、今日は勝てるといいね!」 声を掛けてきたのは、バルザの親友ロッシだった。元ジョッキーで、引退後はドーヴィルでも有数のホテルの支配人になっていた。  「おや?こちらの貴婦人は初対面だが?」 ウッドが彼女を紹介した。出会ったいきさつ、そして馬が大好きなことを知ったロッシは「トレビアン!」とヨーコを褒めたたえた。  「今日ムーランルージュは必ず勝つであろう!」ロッシは断言した。  「彼女は勝利の女神だよ!さあみんな表彰式に備えようじゃないか!私は馬券を買って来るよ!」  2歳新馬戦芝1600m、12頭立て。 レースは手に汗握る大激戦になった。スタートから勢いよく飛び出したムーランルージュは積極的にレースの主導権を握り、ハイペースもなんのその2番手以下を大きく引き離した。そして、5馬身のセーフティーリードを保ち逃げ切りを図るも、残り150m・・・外から2頭が豪快に末脚を伸ばして来た。  単勝1番人気の重圧を、人馬は弾き返す事が出来るのか。  残り100m、3頭の激しい叩きあい。残り50m、横一線。  「負けるな!」  「あと少し!差し返せ!」  「神様ああああ~」  「お願い!」  「ああああ~馬券がああ!」  5人の叫びが人馬に伝わったのか、ムーランルージュは激しい叩きあいを首差制し、見事に1位入線を果たした。  歓喜が爆発した。   ヨーコはシャルルドゴール空港で日本への帰国便を待っていた。 夢のような4日間であった。美味しい料理とワイン、初めての乗馬、そして、まさかの表彰式。  バルザとローザは親切で、とても優しくしてくれた。ロッシからはムーランルージュの単勝的中馬券と最高級ワインを頂いた。   そして・・・ウッドはたくさんの事を教えてくれた。  「ワインとチーズには困らないよ。あと乗馬と馬券にも。また会えるといいな」ウッドが寂しさを押し隠すように笑顔を作る。  「本当にありがとう。また、来てもいい?」  「ああ!いつでもウェルカムだよ!!」 ウッドはヨーコをハグし、彼女のおでこにフレンチキスをした。いつかの再会を願って。互いの未来が再び重なり合うことを神様に願った。  彼女を乗せた飛行機の機影が完全に見えなくなるまで、彼は東の空を見つめていた。 8b6e6c67-f48c-4b75-92f5-1912292482d9
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