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親仔
朝日大成様
うん、ここだ。間違いない・・・
病室の入り口に表示されているプレートを確認してから、彼はノックをした。
「はい、どうぞ!」
入室を促す声に安心する。どうやら軽傷のようだ。ベットの上で横たわる人物は、未来の父大成であった。
数々のG1レースを制覇している関西有数の名手。未だその手腕は衰える事なく、今年も数々のレースで競馬場を沸かせた一人である。
「大丈夫か親父?」
未来はベッドの横に置いてあるパイプ椅子に腰を下ろした。
「ああ・・・まあ何とかな」彼は顔を顰めながら言った。
騎手に怪我はつきものである。
サラブレッドは400キロ以上の体重を4本の手脚で支えている。
全力で疾走する彼らの四肢に加わる力というものは、人間の想像を遥かに超えたものである。
競争中に起こる事故を想定、また事故を防ぐために騎乗前、事故につながる予兆はないか、また返し馬の時にも注意を払い、レースでは常に周囲を観察しながら集中力を高めて騎乗する。
それでもやはり事故は突然起こるのである。
「まあ、左足はいいとして、鎖骨を折るとこんなに痛いとは思わんかったわ」彼は左の鎖骨を指差しながら言った。何やらがっちりと固定されているようだ。
彼は、有馬記念当日阪神で騎乗しており、そのレースを後方で進めていたのだが、突然前方の馬群の中の1頭が故障により競走中止、そのあおりを受けて彼も落馬した。
左鎖骨骨折と、左足第二第3中指骨骨折・・・全治2ヶ月の診断であった。念の為、頭部のMRI診断実施と、その後の経過観察の為、3日間の入院となった。
「お前も落馬には気いつけや!長いことやっとると、こんなこともあるねん」彼はしみじみ、まるで自身に言い聞かせるかのように、未来に忠告をした。
勝負の世界に身を置いている以上は、尊敬する父とはいえライバルである。あいつと同じく。
しかし、30年以上もこの職業に身を置きながら、命を賭けている父の言葉には、深い重みがある。
「うん」未来は頷いた。
「まあ、騎手は武士みたいなもんやな」
「武士?」
「ああ。武士は大切な主君を守る。その為には、敵を切ることも厭わん。武士が刃こぼれを気にして刀を振れなくなったらどないする!」
未来を考える。騎手は武士か・・・。
「落馬を恐れていては馬には乗れん。お前は騎手であり、武士だからな。ただし、周りに迷惑をかけるラフプレーはあかん。だからといって、遠慮してもあかん。ただ1つ、常に360度周囲の気配を探れ。馬の気配、騎手達の気配・・・すべてだな」
未来はつくづく、父が父で良かった・・・と思う。
幼少の頃から馬に触れることのできる環境だった。現役騎手が家に訪れて遊んでもらったり、競馬のVTRを一緒に見たりもした。騎手になるのが当たり前だと思って成長した。中学生に上がった時、
「騎手になる!」
そう告げた時の、両親の笑顔が忘れられない。
そして、競馬学校に入学し好敵手と出会った。騎手になって、本当に良かった。
「まあ、新人賞を受賞したお前に言うことではないがなあ」
彼は改めて未来を祝福した。
褒められる事には慣れていない。ただ・・・あの最終レースだけは特別だった。何が何でも、という気持ちだった。1番人気は何度もあったけれど、あのレースだけは生涯忘れることのできないレースの1つになるだろう、と未来は思う。
単勝1.2倍、勝てばアイツに勝ち星で追いつく事かできる。無我夢中で追った。後続を振り切ってゴールした瞬間、思わずしたガッツポーズ・・・その事を覚えていないほど集中していた。
あの緊張感を味わう事ができて、本当に良かったと思う。
「騎手である限り、これから何度も訪れるプレッシャーとの戦いを楽しみなさい。楽しむ事ができれば騎手の仲間入り、プレッシャーを楽しみながら勝つことができれば、一流の騎手、そして、プレッシャーに慣れて勝ち星を積み重ねる事ができれば、超一流の騎手です」
冨士原先生が言ってくださった言葉。
まだ、騎手の仲間入りにも程遠いけれど。
「新人賞受賞のパーティー、金杯の翌日だったよな?」
ああ、そうだった・・・。
関西放送記者クラブ主催の受賞パーティーが、年明け初戦の翌日に、京都市内のホテルで行われるのだ。
何やら面倒な表情をした未来に、彼が言った。
「まあ、せっかく選ばれたんや。一生に1度の賞を!選んでくださった記者の皆さん、お世話になっているオーナーや調教師、生産者・・・関係者一人一人に感謝して出席してこい!それにしても、88勝か。たいしたもんやな。俺の初年度は15勝だったなぁ・・・」
彼は、窓の外の景色を眺めながら、昔を懐かしむかのように呟いた。
それにしても・・・入院してまで、個室の外から見える景色が競馬場というのはいかがなものか。未来には、罰ゲームのように思えて仕方が無いのだが。
「そうだ!お前車椅子押して俺を連れて行けよ!」
「え?行くの?」
「当たり前やろ。一生に1度の事なんだぞ!それに色々と挨拶せなあかんし」
あ〜あマジか・・・未来はがっくりと肩を落とす。
「まあ、それよりほら、母さんのおせち持ってきたんやろ?」
彼は、話題を切り替えて、空腹を満たす戦いに挑む腹づもりだ。
まだ歳も明けてないのに、おせち持たせるおかんもおかんだよ!家でゆっくり食やいいのに。
未来は、ひとりブツブツ言いながら、風呂敷に包まれたおせちを取り出した。京都、老舗旅館監修の豪華な三段重である。
母さんのって・・・
未来は、必死に笑いを堪えながら、大好物の伊達巻に手を伸ばす。
戦士達の休息・・・正月にはまだ少し早い、騎手親子の団欒のひとときであった。
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