躍進

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躍進

 まだ空が白ける前の暗い中、彼等の姿が躍動するのが見える。  直線半ば、鞍上の合図でグッと重心を下げ加速をする。最内にコースを取り、僚馬2頭にスッと並んだ。3馬身間隔の最後尾から長く脚を使い、外の馬に併入、中の馬に1馬身先着。 「直線しっかり手前を変えて、並んだら良い反応をしてくれました。息遣いも良く順調のようです」  彼は調教師に報告し、調教を終えた馬の正面に立ち、鼻面を撫でながら何やら話しかけている。 「うん。いい追い切りになったな。これで来週の未勝利戦に使えるな。頼んだぞ!」 「はい!全力を尽くします!」  3月中旬・・・桜の開花間近の小雨そぼ降る栗東トレセン内。数多くの競走馬が、次走に向けた調教を施されていた。その馬上に翔馬の姿もあった。  翔馬は調教が大好きだ。 彼らは、人と同じく性格も様々で個性に溢れている。  とにかく真面目でまっすぐに走る馬、ソラ(脇見)を使い、走っている際にヨレてしまう馬。特に牝馬の場合は、機嫌良く接してあげないとへそを曲げてしまうことがあるので要注意である。  どうせ調教だろう!と思っているのか?本気で走らない馬もいる。ある意味、オンとオフの切り替えができているとも言えるのだが(一流馬になる素質があるのかも知れないが?)、それでもしっかりと走らせないといけない。  翔馬は、しっかり調教を頑張った馬には必ず、 よく頑張ったな!と、彼ら彼女らの瞳を見ながら語りかける。  そうしてあげると、今まで調教で追われていた事を忘れたかのように目を細めて、気持ち良さそうにしてくれる。  この瞬間がとても大好きなのだ。  多分こうやって、人と馬は何世紀もかけてコミュニケーションを取り続けお互いを知り、信頼関係を築いてきたんだろうな、と思う。  まあ、機嫌が悪いままの馬もたまにはいるのだけれど、馬房に戻り食事をもりもり食べれば忘れてくれるだろう、と思うことにしている。 「翔馬は馬を惚れさせる才能があるよ。人間はどうかわからないけれど。」  G1レースを何十勝もしている偉大な先輩にそう言われた時は、穴があったら入りたいほど恥ずかしかったが。  そしてある時、 「連勝しているあんな良い馬を手放しちゃだめだぞ翔馬!完璧な騎乗なのになんで乗り替わりなんだ?オーナーサイドか?それともテキ(調教師)か?」と言われ答えられず、別の先輩には、 「翔馬の腕で3連勝している馬を降ろすオーナーもどうかしてるぜ!怖いわ!俺も気を付けないと!」と言われ苦笑いをし、 「テキの指示を守る事はもちろんだけど、もう少し自分を出さなきゃ駄目だぞ!」とも言われた。  デビュー2年目の新人に対し、心配をしてくれるその気持ちは凄く嬉しい。  勝ち負けの世界に身を置いている以上はライバルであり(もしかしたらライバルと思われていないかもしれないが)、ましてや生活がかかっているのだ。  決して遠慮している訳ではない。 ただ単に実力が不足しているだけなのだ。それは、自分自身が1番良く分かっている。  だから先輩達には、 「一頭一頭、大切に乗り続けたいと思います」と、答える事にしている。  何やら考え込んだ先輩は翔馬に、 「・・・俺に何かあったら、お前、頼むぞ!」と、言った。    いや・・・何かあったら本当に困るんですけど・・・ 恐れ多い言葉に慌てふためいた翔馬であった。  翔馬は着実にステップアップしていた。 4月上旬まで京都、阪神で騎乗、未勝利、1勝、2勝クラスで勝ち星を量産し、既に38勝を挙げ関西リーディング5位につけるという快進撃である。  未来はそれを上回る40勝。 互いに重賞勝ちは無いものの、デビュー2年目の騎手がリーディング4、5位につけており、また、2人の話題性もあり、スポーツ紙は連日2人の特集を組むほどであった。  日本の競馬ファンが心躍らせるクラシックの季節がまたやって来た。    満開の桜を背景に、アーモンド型の瞳を輝かせたその馬は、大外から猛烈な勢いでやって来た。そして、無敗の2歳G1馬を並ぶ間もなくノーステッキで交わし、悠々と、最後は流すようにして勝利を掴み取った。  観客は、その圧倒的な強さに衝撃を受け、言葉を失った。  小倉、中山でコツコツ力をつけてきたその馬は、当日の淀みのない流れの中、先行策から見事抜け出して、鞍上に、オーナーに、そして父オルフェーブルに初のクラシックタイトルを贈った孝行息子になった。  桜花開くレースを圧勝した彼女は、気負いもありレース前半は苦しんだものの、最後の直線で好位置からあっさりと抜け出して、2馬身差で二冠を達成した。    人々は語り合った。 「この馬は競馬の歴史を大きく塗り替えるかもしれない」と。  ワーグナーのファンと命名された超良血のその馬は、3連勝でクラシックに名乗りを挙げたものの、年明けに連敗を喫し、当日は5番人気と評価を下げた。  しかし、本番当日は馬群先団の好位の外を、気負う事なく追走し、最後の直線で出色の脚を見せ、悲願に燃える鞍上と共に先頭でゴールを駆け抜けた。  2015年生まれのサラブレッドの頂点に立った瞬間であった。鞍上の瞳から涙が零れ落ちた。  ヒーローが、ヒロインがターフを駆け、その一歩を進める先に出現する新たな道・・・。  馬も人も、歩みを止める事はない。 「翔馬、そこに座りなさい」  人も馬も、今年の茹だるような暑さには辟易の様子。だからこそ、暑熱対策、馬の熱中症予防に万全を期さねばならない。  厩舎のそれぞれの馬房前に設置されたミスト付きファンが唸り、天井の大型換気扇も全開・・・氷馬服と、氷マフラーを装着した彼らはその快適さにごきげんの様子である。  俺も熱中症にならないように注意しなきゃなあ・・・雲一つない空から、灼熱の太陽の熱気が、容赦無く降り注いでいる。  翔馬の存在に気付いた馬達が馬房から続々と顔を出し、盛んに前掻きを始めた。 「ご飯はスタッフさんからもらってなあ!」 翔馬は汗を掻きながらも、先を急いだ。  師は調教日誌をチェックしていたがその手を止め、冷蔵庫からブラックのコーヒー缶を手に取り、1本を翔馬に渡してから向かいのソファーに座った。  そして、プルタブを引いた翔馬に、驚天動地の一言を伝えた。 「僕が・・・ですか⁉︎」 「そうだ。良い経験になるぞ!先方からのご指名だ!自信を持って騎乗してきなさい。これからのお前にとって大いなる財産になるぞ!」  翔馬は、固まってしまった。 夢なら覚めてしまえ!と思うほどの。 恐怖ではないけれど、恐れ多い依頼である。 「せっかくのチャンスだ!もう先方には了解の意は伝えてあるし、通訳の心配は要らないから安心して行って来い!パスポートを作っておいてよかったな!」  そして・・・師はにっこり笑ってこう言った。 「頑張れよ、お父さん」 「・・・・・・・・・」  ああ・・・月の光が差し込んでいるのか・・・。 翔馬はぼんやりと白く光る天井を見つめた。 「フランス・・・か」  中田師は、愛弟子にフランス行きを厳命した。 9日間の渡航届をJRAに提出し、3日間で12のレースに騎乗する。そのうちの1つはG1レースだ。 翔馬がスマホでそのG1を検索すると、ちょうど20年前に日本が勝利を収めている、伝統あるG1レースだった。  まだ1度も重賞レースに乗ったことがないのに、いきなり海外G1レース⁉︎  しかも、たった1人でフランスに。 「空港に着けば、後は何の問題もない。身元引き受けをしてくださる調教師先生と、契約馬主さんが首を長くして待っているから」って、師匠は言っていたな。 「フランスか・・・」 確かに千載一遇のチャンスだろう。 果報は寝て待て!と言うけれど、この世界・・・寝て待っていたら、吉報ではなく、悲報が届いてしまうだろう。  師は最後にこう言った。 「自分自身の成長の為に世界を見てこい!そして、目に、体に、心に刻み込んでこい!」  この言葉は、翔馬の胸に強烈に響いた。  翔馬はまだ、本当の意味でのプレッシャーというものを経験したことがない、と言ってもよかった。一鞍一鞍全力で乗って来たと言う自負はあるけれど、その点未来は違った。  あの日の最終レース・・・ 単勝1.2倍、勝てば翔馬に勝ち星で追いつく事のできる状況。  馬群に包まれ、開いた進路もカットされ、それでも最後の直線で前を走る2頭に迫り、その2頭の間にポッカリと空いていたわずか1頭分のスペースに飛び込み、見事に差し切った。  最終レース、騎乗のなかった翔馬は、そのレースを検量室前のモニターで見ていた。  その瞬間、翔馬は思わず呟いていた。 「あいつ・・・・・・凄え・・・」 負けたくない‼︎ 本気でそう思った。 「うん!」 翔馬は決心した。  飛べない翼を抱えながらも、その扉を開ける事のできる鍵を求めに・・・・・・翔馬は再び眠りに就いた。 5e4580db-8f9b-4ece-aa3a-1d25842683cc
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