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遠征
「ボンジュールは、おはよう。ボンスワールは、こんばんは、さようなら。ボンボヤージュは、よい旅を。シャルマンは、チャーミングな。へえ〜
ポトフも、シャンパンもフランス語かあ・・・」
スマホで検索を繰り返す1人の若者。
彼は、今売り出し中の若手騎手の1人である。ファンならば、何の変装もしていない彼を見分けるのはいとも容易いはずだ。その証拠に、美人のキャビンアテンダントは、彼ににっこりと笑顔を見せた。
彼はその笑顔につられて、コーヒーを注文した。
翔馬は今、機上の人である。
行き先はフランス、目的は競馬場での騎乗。
大切な書類も、パスポートも全てボディーバックに入れて首にかけ、万全の態勢である。
師曰く、翔馬に騎乗依頼をした契約馬主は、デビューしてからの翔馬のレースを全てチェックしており、親交のある調教師に身元引き受け人を依頼したらしい。その調教師と師が親交のある事から、話はとんとん拍子に進んだ・・・との事であった。
どんな人なんだろう・・・。
フランス人の馬主さんが自分のレースをチェックしていた。しかも全て。
調教師先生は日本人、馬主さんはフランス人。
「通訳の心配はいらない・・・」
きっと、調教師先生の事だろう・・・とりあえずは一安心だ。スマホの通訳機能は必要ないだろう。
多分。
それにしても、前回座った席とはえらい雰囲気が違うよなぁ・・・・・・。なんだか席が広いし、
「わわっ⁉︎」 ほぼ180度背もたれが⁉︎
これはしっかり眠れそうだぞ!うん!
飛行機に乗ったのは昨年末、翼の働く牧場に顔を見せて以来であった。
地方への遠征は、札幌・函館以外の遠征だったので、新幹線がメインだった。
小学生の時、蒼井先生に連れられて翼と一緒に飛行機に乗った時も、競馬学校に入学する為に東京へ向かった時も、そして前回もこんな豪華な食事は提供されなかったから・・・。きっと距離の問題だよな。さて!
「ポワレ・・・肉をバターだけで蒸し焼きにした料理・・・お!美味しいねこれ!カナッペ・・・焼いた、小さな食パンの上に、ペーストなどをのせて・・・。これにキャビアをのせて食べる・・・と。・・・・・・。
フリカッセ、肉をホワイトソースで煮込んだシチュー。鶏肉がたくさん入っていて美味しいよこれ!ガナッシュ、生クリームやウイスキーを・・・。
ボンボン、ウイスキーなどを・・・⁉︎」
彼は、思わず手を止めた。
「あ・・・これお酒?」
彼は自分の無知を嘆いた。未成年は飲酒厳禁である。が、
「ん?待てよ。」
そもそも航空会社は自分の年齢を把握しているはずである。なので、未成年にお酒を出すはずがない。うん!彼はそう思う事にした。
「それにしても、まるで飛行機の中にレストランがあるような・・・。こんな豪華な食事を受ける身分ではないのになぁ・・・・・・ふぁ〜・・・zzzz」
彼は睡魔に襲われたようである。
スヤスヤと眠る彼に、美人のキャビンアテンダントが毛布をそっと掛けて、
「おやすみなさい。良い夢を」と言い、ニッコリと笑った。
「当機はまもなく、シャルル・ドゴール国際空港に到着いたします。パリ市内の天候は晴れ、気温は24度・・・・・・」
彼はぐっすりと眠れた様子である。
ガナッシュとウイスキーボンボンの効果は絶大であった。師匠や先輩へのお土産に最適だろうと、彼は考えた。
やがて機体は地上へ向かって降下を始めた。
目の前に近づいてくる絢爛なパリの街並み。そのきらびやかな美しさに、彼は呆然とし声を失っていた。
「ボンボヤージュ!」
美人キャビンアテンダントの笑顔で、彼は現実に引き戻された。
師匠の言う通り、紳士2人が首を長くして待っていたのは間違いなかった。1人多いのは何故?
カウンターで荷物を受け取り、出口へ向かう途中で、手を振っている3人組を見つけた。女性が、《大空翔馬様》と書いてあるプラカードを持っていたので、本当に恥ずかしく俯き加減の翔馬であったが。
3人は満面の笑みで翔馬を迎えた。
白髪の老紳士が翔馬を抱き締め、
「やあ、ショーマ!長旅お疲れ様でした。会いたかったです!」と言った。と思う。
翔馬は覚えたてのフランス語で、
「メルシー!」と言うと、紳士は、
「トレビアン!」と言って、翔馬の肩を叩いて喜んでいた。
翔馬は一部のファンに、〈ショーマ〉と呼ばれていた。特に女性に。翔馬と書いて、カケルと呼ぶのだが、何故なのかわからない。まあ、漢字をそのまま読んでいるのだろう。名前を2つ持っている。騎手はなかなかレアである。
日本人の調教師先生は森永先生といい、40代後半と思われる、長身痩躯でなかなかダンディーな男性であった。
「やあ、やっと会えたね!翔馬君に会えるのをずっと楽しみにしていたんだ!さあ!何か甘いものを食べに行こう!」と言い、翔馬が甘いものが大好きだという情報を仕入れていたのか、あの有名な映画〈アメリ〉の主人公が働いていた、カフェ・デ・ムーランに場所を移す事になった。
お昼時でもあり、たくさんの老若男女が華やかなカフェで午後のひとときを過ごしていた。歴史を感じさせる重厚さをも併せ持ったカフェで、アメリのポスターに囲まれながら、改めて自己紹介が始まった。
オーナーは、ジュスティーヌ・ロッシ氏という、元ジョッキーで、今はドーヴィルでも有数のホテルのオーナーという事だった。馬主歴は10年で、今年の夏に初めてG1に持ち馬を出走させるという事だった。
元ジョッキーという言葉に反応した翔馬に、ロッシは、
「ショーマみたいな素晴らしいジョッキーではなかったよ!」と、右手を振りながら笑った。
調教師先生は、フランスでの調教師生活が今年で28年目(年齢は55歳だった)、過去にもフランスへ遠征した日本馬の受け皿として、その役割を何度も務めているとの事だった。
今回は、G1ジャックル・マロワ賞に森永厩舎所属のロッシ氏の持ち馬が出走するということで、翔馬に白羽の矢を立てたという事である。
ちなみに、女性はロッシ氏の秘書だという事だ。映画女優と言われたら、翔馬は信じてしまうだろう。
自己紹介が一段落したところで、アメリの主人公が大好物のクリームブリュレが運ばれてきた。
焦がし砂糖のザラザラ感溢れる表面の下には、プリンのようなクリームが隠れていて、とっても美味しかった。
これは持って帰るのは無理だな・・・翔馬は心の中で納得をした。
今夜は、パリ市内のホテルに泊まるとの事。
あの凱旋門が目の前に見えるらしい。軽いデザートを終えた4人は、ホテルにチェックインをした後(本当に凱旋門が目の前に!)、女性秘書の運転でパリ市内を観光する事になった。
オペラの殿堂〈オペラ座〉、ルーブル美術館、
堂々そびえ立つノートルダム大聖堂に目を瞠り、その歴史の重みを感じた。高さ209メートルのモンパルナスタワーを通り過ぎ、建設から130年になるフランスの象徴、エッフェル塔を見上げた。
「この森の奥に競馬場があるんですよ!」
助手席に座るロッシが言った。
ロンシャン競馬場だ・・・・・・翔馬が夢にまで見た場所。
過去に日本馬が何頭も挑戦しては涙を飲んだ、欧州の高き壁・・・。歴史ある競馬場。
堂々たるロンシャン城を通り過ぎ、やがて競馬場の全容を見渡せる事のできる場所に車を停め、ロッシ、森永師、翔馬の3人が車から降りた。
2年間に渡る改修工事を終え、生まれ変わったスピードと疾走の美しい神殿・・・。翔馬は、コースを力強く駆け上がる、サラブレッド達の姿を想像した。
森永師が言った。
「いつか、この場所で栄光の瞬間を味わいたいものです」
翔馬は美しく輝きを放つ、パリ・ロンシャン競馬場をじっと見つめた。歴史を背負い、そして新たな歴史を紡いでいくその場所を。
「はい。いつか必ず!」
翔馬は、夕日に照らされたこの光景を、目に焼きつけていた。
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