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馬の神様
翌日ホテルをチェックアウトした一行は、パリ郊外のオルリー空港から、世界文化遺産でもあるルアーブルに向かった。午後2時過ぎに到着し、女性秘書の運転で、競馬、カジノ、映画祭・・・社交界御用達のリゾート地であるドーヴィルへと向かった。
ノルマンディー橋を越え、海岸線を走る。
美しいセーヌ湾を右手に走る事1時間・・・一行はドーヴィルに到着した。
今日からの滞在先は、身元引受調教師である森永師の自宅である。
厩舎では40頭ほどの競争馬が管理されており、多くのスタッフがキビキビと仕事をしてしている様子を横目に、4人は打ち合わせの為に自宅の横にあるテラスに向かった。
高台にあるテラスからは、たくさんの競走馬がトレーニングを積んでいる姿を見る事ができた。
自然の起伏を最大限に利用した坂路が延々と続いている。
やがて1人の女性がコーヒーとチーズケーキをトレイに乗せて運んできた。
「初めまして。森永の妻です。長旅お疲れ様でした。どうぞレースではお怪我のないよう、楽しんでください」と言い、頭を下げて退出した。
翔馬は懇切丁寧な対応に心から驚き、
「先生は奥様とこちらで知り合ったのですか?それとも日本ででしょうか?」と、思わず尋ねてしまった。
日本しか知らない翔馬であるから、海外で調教師をしている師と、激務を支える奥様・・・どうしても興味が湧いてしまう。師はコーヒーを片手にこう言った。
「僕は元々北海道の畜産大学で獣医学を学んでいたんだ。妻は大学の同級生で、お互いに馬が大好きで、僕がフランスで調教師を目指す事に大賛成だった。2人で卒業旅行に行ったフランスでその想いは決定的になった。今になって思えば新婚旅行にもなったのかな。卒業後2人で渡仏し、僕は調教師になる為の養成学校に入り、無事に調教師になる事ができた。まだまだ半人前だけどね」
「とすると、先生は北海道出身でしょうか?」
翔馬が尋ねると笑って、
「そう、帯広だよ!」と言った。
何だか一気に親近感が湧いたように感じた。
通訳をしている秘書の言葉を聞いて、ロッシ氏もにっこりと笑っていた。
騎乗は金・土・日の3日間で、金曜は3鞍、土曜は4鞍、日曜は5鞍に騎乗、計12レースに騎乗する。G1ジャックルマロワ賞は日曜のメイン競争である。
騎乗馬全頭がロッシ氏の持ち馬だという。 責任重大である。2歳新馬戦7頭、1勝クラス3頭、3歳重賞GⅢ1400メートル1頭、そしてジャックルマロワ賞に参戦するレザンドリー(牝馬4歳)の計12頭だ。その中の3頭はロッシ氏が特に親交のある牧場の生産馬で、レザンドリーはフランス屈指の名牝の血を引いているという。
通算5勝を挙げているが、4歳の夏に突如才能が開花し、現在条件戦とは言え4連勝中、しかも全て5馬身差をつけて圧勝している、究極の上がり馬である。
レースまであと4日・・・早速明日からの3日間の各馬の調教や追い切りに同行する為の打ち合わせを始めた。
翌日の早朝から、翔馬は全頭の特徴を把握する為にコミュニケーションを取り始めた。馬の瞳を見つめ、何かを語りかけ、その背に乗り、動きを確認する。
2歳の若馬には、特に慎重に接した。
初戦で機嫌を損ねるような走りをさせてしまうと、その後なかなか立ち直れず、きっかけが掴めないまま凡走を繰り返す馬も多いのだ。
スピード一辺倒の馬、スタートが遅いけれど、切れ味鋭い馬、囲まれていないと安心しないのか、馬群にいるのが好きな馬、反対に馬群に包まれるのを嫌う馬・・・。
翔馬は各馬の特徴を頭に、体に叩き込み、それぞれの動きを動画で撮影したiPadを師から受け取ると、宿泊している部屋に戻った。
頭の中で1頭1頭、それぞれのレース展開を何度もシュミレートし、日付が変わる頃ようやく眠りに就いた。
翌日も早朝から数頭の追い切りに騎乗し、森永師と朝食を共にした。
「翔馬君は本当に馬と会話ができるのだね」
フランスの朝食にはクロックムッシュがぴったりである。
「そんな意識はあまりないのですが、調教を始める前、終えた後、そしてレースの騎乗前には、必ず、瞳を見つめ、声をかけます。もちろん、レースを走り終えた後も」
「翔馬君、口取り式で下馬する事があるだろう」
先生もどうやらクロックムッシュがお好きなようだ。奥様に1枚お代わりをお願いしている。翔馬の皿にも新たに1枚が置かれた。湯気たっぷりホカホカである。
「はい。一生懸命走り終えた後、フラフラになっている馬に乗っているのは酷だと思います。馬が第一です。騎手が馬上にいなくても写真は撮影できますから。その時は、もう少しで帰れるから頑張ろうな!って声を掛けますけどね」
と、お道化て言った。
師はコーヒーを一口啜ってからこう言った。
「翔馬君はね、馬の神様に愛される資格があるよ」
「いえ…そんな…。ただ馬が大好きなだけで…」
翔馬は馬の背に乗り、鼓動を、命を感じることが大好きなのだ。
「馬の神様に愛された人間にはね、黄金の翼が与えられるんだ」
「黄金の翼?」カケルひたと師を見つめた。
「うん。その資格のある者にね。馬を大切に想う者に与えられる、ほんのささやかなご褒美さ。その扉は毎日の中にある。その鍵もね。日々、馬を想い、馬を愛すること。そのことに国境なんて関係ないんだ。君の馬に対する真摯な、愛情あふれる行動が馬に伝わる。ここにいる馬はね、翔馬君にしてみれば外国馬なんだよね。でも、みんな気持ち良さそうに走っているからさ。これからも君にはずっと馬を愛してほしい」
昔、競馬学校で未来と話したある話を思い出した。
馬の神様が与えてくれる夢…何だか夢物語のように、感じていた。けれど、その扉が毎日の馬への想いにあるのなら、いつまでも追い求めてみたい。
馬を愛する気持ちに国境はない・・・。
「はい。まだまだ未熟者ですけれど、神様に愛されるように努力します」
翔馬は宣言した。濁りなき、澄み切った瞳で。
夕方、翔馬は高台のテラスに上り、馴致(鞍を付け、人を乗せたりする)を受けているサラブレッドを眺めていた。夕陽が辺りを照らし、広大な土地も相まって、本当に異郷にいることを彼は実感していたのだろう。
師はコーヒーと、妻が作ったマドレーヌを乗せたトレイを手に、彼に声を掛けようとした。が・・・彼は動く事ができなかった。
幻なのだろうか・・・・・・。
夕陽を浴びた彼の背中に、金色に輝く翼が・・・。
その周りを、羽を広げた小さな天使達が、閉じている彼の翼を広げようとして、精一杯飛び回っている。彼は呟いた。
ああ・・・・・・やはり。彼こそが・・・。
彼は、その幻想的な光景をいつまでも見ていたいと思った。
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