旅立ち

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旅立ち

春近し3月、陽光降り注ぐ北の大地から、今、2人の夢を追う若者が旅立ちの刻を迎えていた。 「カケル、いよいよ明日か」 親友の翼が、校庭で1人佇むカケルに声を掛けてきた。 「ああ」カケルは数人の女子生徒に囲まれて、制服のボタンを1つ残らず奪われ、困り果てた様子だった。 「ボタンないじゃん」翼は奪われずにいた自分のボタンを2つ外してカケルに渡した。 「男からもらってもなぁ」 「女は男からもらうんだよ」 「俺は女じゃねーよ」カケルは苦笑いを浮かべながらもボタンを受け取った。 「G1に出ることになったらよ、必ず連絡しろよな。どこの競馬場でも行くから!クラス全員連れて!」 「まだ入学もしてないし、卒業もしてないんだから気が早いぜ」 「お前なら大丈夫だよ!」 何かの根拠があるのだろうか?翼はそう断言した。 同じく、馬が大好きな翼は、乗馬クラブのある苫小牧の高校へ進学することになっていた。ジョッキーではなく、牧場で働くという夢を持っている。北の大地は一大馬産地…馬が大好きな若者は、この地から離れることができないのだろう。 2人が競馬の世界に初めて触れたのは、2007年6月、ウォッカが64年ぶりに牝馬としてダービーを制覇したその瞬間を、東京競馬場で観戦したのが始まりだった。 カケルは幼少期より、児童養護施設で生活をしていた。施設でのカケルの担当が翼の父であった。  ダービー翌日の月曜日が開校記念日ということもあり、彼が2人を東京へ連れ出したのである。初めて飛行機に乗る2人は大はしゃぎであった。 それまで2人は、馬の存在というものを意識した事はまったくと言っていいほどなかった。 初めて足を踏み入れた東京競馬場は、日本一大きな競馬場と聞いていた。しかも競馬の祭典ということもあり、何もわからない小学生でもその異様な盛り上がりを体感することとなった。 パドックを周回する競走馬の息遣いと、馬体の雄大さに驚き、スタンドは立錐の余地もないほどの超満員。2人の心は、震えた。何万人もの歓声で、まさに大地が揺れているかのようであった。 荘厳なファンファーレが演奏されたその瞬間、何万人もの手拍子が音楽を作り上げ、やがて沸き上がった大歓声。2人は歓声に呑み込まれないよう、意識を保つのに必死だった。 2人はゴール前で、その大レースの結末を見守った。 その偉業がどれほど凄いことなのか、8歳の小学生には正直実感が湧かなかったことだろう。しかし、レース後の大歓声と、何よりサラブレッドの一生懸命に走るその姿に強烈に惹かれたのは間違いない。 その瞬間に、2人は夢を見つけたのだった。 翼の父は、翌月からカケルと翼を月2回、苫小牧にあるホースパークに連れて行った。初めて馬の背に股がった翼とカケルは畏怖の念を抱きながらも、直接に馬の息遣いを感じ、鼓動を感じ、命の尊さを学んだ。 2人は競馬番組も一緒に見るようになった。 また、図書館で競馬関連の書籍を借り、日本の競馬の歴史を勉強した。 2人が競馬を知れば知るほど、それ以上に新たな勇者たちが彼らの目の前に現れていた。 ダービー馬となったウォッカの宿命のライバル、ダイワスカーレット。2頭の一騎打ちで長い長い写真判定の末、ウォッカに勝利の軍配が上がった2018年秋の天皇賞、そして有馬記念で見事に雪辱を果たしたダイワスカーレットの逃走劇に目を奪われた。 2011年3月、日本中が失意のどん底に突き落とされた大震災のその2週間後に、ヴィクトワールピサがドバイワールドカップ優勝という快挙を日本に届け、何事にも立ち向かうんだ!という勇気を与えてくれた。 翌年のジャパンカップでは、三冠牝馬ジェンティルドンナが直線、先輩3冠馬オルフェーヴルと馬体を併せ、弾き飛ばしてのハナ差競り勝ちに、両の拳を握り、その力強さに感動を覚えた。 年末のグランプリでは、ターフの白き千両役者ゴールドシップが皐月、菊花賞に続くG1連勝を成し遂げた。 圧倒的なスピードで、世界を完全制圧したロードカナロアに、この馬の子供達は一体どれほどのスピードを受け継ぐのだろう!と、お互いの配合論をぶつけ合うという、考える楽しさをも与えてくれた。 自分達が知っている世界は、競馬史のほんの一部であり、その入り口にさえたどり着いていないのだ。新しい世界をもっと、もっと、知りたいと2人は思った。 2人とも言葉にはしない。 けれど、諦めなければ夢は必ず叶うことを知っていた。 お互いの道がいつの日か重なり、同じ目標に向かって一緒に進む日がくる事を。 大空翔馬15歳…ジョッキーになるという夢を背負って、今、北の大地を旅立っていく。 いつか俺も!翼はカケルを見送ると、踵を返し、自らも夢の道へと歩き出して行った。 一筋のコントレイルが南の空へ向かって伸びていく。まるで2人の未来を祝福するかのように、その翼を広げていた。 8a987407-fe55-4776-87a8-c33c9e4b5ab0
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