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僕は桜が嫌いだ。
これまでの僕の人生において、思い出したくない出来事の傍にはいつも桜があったからだ。
例えば、小学五年生の時。
クラスに馴染めていなかったフウカちゃんに声をかけた時、僕は彼女に無視されてしまった。
もしも反応してくれたなら、一緒に遊んであげたのに。僕はつまらない気分になった。
その時も傍に桜があった。通学路となる道の両脇に咲いた桜が、桜並木を形作っていた。
次に、中学一年生の時。
サッカー部の仲間だったノリヒトくんは、僕の趣味を聞いて嫌悪感丸出しの顔をした。だけど一緒にやればきっと楽しいと思ったから、僕は彼を趣味に誘った。なのに楽しい時間を終えた後も、彼の表情は晴れなかった。
その時も傍に桜があった。リフティングの練習を終えた後、グラウンドの隅に座って趣味の話をする僕らの頭上に、桜が花を開かせていた。
そして、高校二年生の時。
僕はひとつ年上のモモカさんに告白したが、彼女は僕をあっさりと振った。
彼女は僕の話を聞くなり、さっと背を向けて逃げ出した。優しい人だから、断らないと思っていたのに。
その時も傍に桜があった。校門の近く、よく生徒の溜まり場となっている小さな広場で想いを伝えた僕の脇で、校門の横に立った桜が花びらを吹雪かせていた。
どうしてこれほどまでに、桜は僕を嫌うのだろうか。僕は何も悪いことをしていないのに。僕に酷いことをした彼らにだって、桜自身にだって。
「どうしたの?」
隣から優しい声が聞こえてきた。聞き慣れた声だった。そちらに視線を向けると、僕を見つめて小首を傾げるコハルの姿があった。
「桜、じっと見てたけど。何かあった?」
コハルは足を止め、頭上の桜を見上げた。僕は無意識のうちに、歩道脇から枝を伸ばす桜を眺めていたようだった。
「いいや、何でもないよ。ただちょっと、昔のことを思い出してただけ」
「そうなんだ。私が聞いたことある話?」
「君は知らないと思う。話したことがないからね」
「そう。だったらいつか教えてね、あなたのエピソード」
「いいよ。またそのうちね」
「そのうち、ね。これからはずっと一緒なんだから、いつだって話せるものね。気長に待っておくわ」
僕とコハルは結婚したばかりだ。彼女の一言は、その幸せな状況を改めて示すかのようだった。
これから幸せな日々がはじまる。僕とコハルは夫婦として、共に新しい人生を歩んでいく。
――――そうなのであれば。僕は思う。
そうなのであれば、僕のこれからの人生と、桜という存在を隔てたい。
僕のこれからの新しい人生と、桜と共にあるこれまでの苦い思い出。それを区切る何かが欲しい。
そうだ。僕は思った。
存在が疎ましいのであれば、消せば良いのだ、と。
その夜、僕はこっそりベッドを抜け出した。
隣で眠るコハルは、僕が身動ぎをして起き出しても眠っていた。僕は足音を忍ばせて、物置となっている一室に向かった。そして、そこから大ぶりの斧を取り出した。僕の趣味に使うものだ。
僕は寝巻きの上に適当なカーディガンを羽織り、サンダルをつっかけ、斧を持って家を出た。
桜は日本全国に存在しているから、その全てを取り去ることはできない。だから、僕とコハルの家の最も近くにあった、大きな桜を選ぶことにした。今この瞬間、僕にとって、目の前にそびえるこの樹木は、世界全ての桜の象徴だった。
僕は斧を構えた。勢いをつけ、振り下ろした。太い枝がばさりと落ちた。桜の花が地面に落ちた。
別の枝目がけ、僕はまた斧を振り下ろした。逞しい枝があっさり落ちた。花びらが乱暴に宙を舞った。
そうして僕は、桜の木の枝を切り取っていった。
ひと振りひと振り、僕の手で行うことに、確かな意味を感じていた。
「よし」
やがて、最後のひとつが切り取られた。僕は額の汗を拭った。
全ての枝を失った桜の木は、無惨な姿となっていた。地面と繋がっているのはもはや幹だけとなり、冬のような寂しさを漂わせていた。
僕は満足した。これで、新しい日々を美しく迎えることができる。この儀式を終えたこの瞬間こそが、新しい日々の始まりだ。
僕は夜の空を見上げ、満足感に微笑んだ。僕の視界に映るのは、寒々しい幹だけだった。
「あそこの桜、誰かに切られちゃったんだって」
夕食の席に座ったコハルは、コーヒーの水面を見つめていた。僕は端的に一言、尋ねる。
「あそこの桜、って?」
コハルは目を上げて、僕の顔を見た。
「私が会社に行く時、いつも通っている道があるでしょ?その近くにある桜」
「そうなんだ」
僕には心当たりがあった。昨晩、日本全国の桜の代表となったあの桜だった。あれはこの家から最も近くに立っている桜であると同時に、いつもコハルが通勤に使う道の近くに生えているものでもあった。
コハルは窓から外を見た。どこから舞ってきたのか、桜の花びらが風に弄ばれていた。
「今朝、私も通勤途中にそれを見たの。昨日の夜に切られちゃったらしくて、ひとつも枝がない悲しい姿になっていたわ。特に今は桜が咲く、いい季節だというのにね」
コハルの声のトーンが変わって、僕はコハルを見た。彼女はいつしか頬杖をついていた。
「君はどう思ってるの」
「どう思ってるの、って?」
「この件について。君はどう思ってるの?」
僕を見るコハルの目が、すうっと細まった。
「悲しいわ」
僕の胸に、何かが刺さった。胸の中心に冷たいものが突き刺さり、その冷気が身体全体に広がっていくような気がした。
コハルは僕の動揺に気付かない。気付かないまま、悲しそうに微笑んだ。
「悲しくて、残念よ。あの桜、毎日のささやかな癒しだったんだけどね」
彼女がコーヒーを一口啜った。それでもなお、表情の悲しみは薄れなかった。
僕は息が詰まるほどの苦痛を覚えた。そして、同時に、怒りも感じたのだった。
桜は、やはり忌むべき存在なのだ。もしも桜という植物が存在しなければ、コハルが悲しむことはなかった。桜が僕の苦い思い出と結びつかなければ、妻が目を伏せることはなかった。
桜は、僕の妻に悲しい顔をさせたのだ。
座っていた椅子から立ち上がって、叫び出したい衝動に駆られた。
どうして桜はいつも僕の邪魔をするのだ。
小学五年生の時。クラスに馴染めていなかったフウカちゃんに声をかけた時、僕は彼女に無視されてしまった。
僕は彼女に、こう声をかけたのだ。「この弱虫!悔しかったら言い返してみろよ!」。
もしも彼女のプライドが傷つき、僕に言い返してきたなら、それはとても面白いことだと思った。いい遊びになると思った。なのに、フウカちゃんは僕を無視した。せっかく楽しむチャンスだったのに。
中学一年生の時。サッカー部の仲間だったノリヒトくんは、僕の趣味を聞いて嫌悪感丸出しの顔をした。
だけど一緒にやればきっと楽しいと思ったから、僕は彼を趣味に誘った。適当に捕まえてきた虫を解剖するという趣味だった。僕の手から逃げようと必死にもがく虫の手脚を引っこ抜くのが特に楽しかった。なのにそれを目の前でやって見せても、ノリヒトくんは楽しい顔をしなかった。せっかく教えてあげたのに。
高校二年生の時。僕は思いを寄せていたモモカさんに告白したが、彼女は僕をあっさりと振った。
優しい人だから、断らないと思っていたのに。
モモカさんは高校を卒業後、服飾系の短期大学に進学することを希望していた。しかし、彼女の家はあまり裕福ではなかった。だから、短期大学に行けるだけの金銭が無かった。一定の成績があれば、進学するための奨学金を受け取ることもできたのだが、モモカさんはそれに足る学力がなかった。その結果、モモカさんは希望を諦め、学歴は高校卒業に留めて就職することになったのだった。
彼女自身はそうした事情を周囲の友人にさえ語らなかったが、僕は全て調べたから知っていた。
学校から家に帰ると必ず、彼女はお洒落な服に着替えていた。最初のころは、これから誰か特別な人間と会うつもりなのではないかと心配したものだが、結局夜が深くなっても彼女は家を出なかった。
服飾系の短期大学への進学を希望していると知ったのはその後だった。モモカさんの習慣と希望の進路の関係が見えて、当時の僕は彼女のことをより深く知った気になった。
モモカさんのことなら、僕は何でも知っていた。彼女の周りの人間関係から、トイレに行った回数まで。
なのに、彼女は僕をあっさり振った。僕はこれほど彼女が好きだったのに。
桜は酷い。こうした出来事が起こった場面には、いつも桜が咲き誇っていた。まるで僕を、嘲るように。
そして、今。
桜は僕の愛しい妻に、悲しい顔をさせたのだ。
とても許しがたいことだった。どうして桜は、いつも僕を陥れるのか。
一体僕が何をしたというのか。許しがたい。許せない。どうして。なぜだ。
「本当に、悲しいわ」
妻が再び、俯いた。僕は悲しい気分になった。
やっぱり僕は、桜が嫌いだ。
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