0人が本棚に入れています
本棚に追加
庭に佇むキミへ。
暮れなずむ頃になると、いつも庭の梅の木の枝にもたれ掛る彼女の姿を見る。
「やあ、またブーたれてるのかい?」
綿入れ半纏を羽織り、幹久は彼女の元へと歩み寄る。随分と年寄りくさい格好ではあると自覚はしているが、夜はまだまだ肌寒い。
「ブーたれたくもなるわよ。だって、桜が咲いたのだもの」
「そうだね。そこらかしこも満開で、みんな、スマホ片手に写真を撮りまくっているよ」
「そ・れ・が! 気に入らないのよ! 何よ、梅が咲いている時は『ああ、梅だね~春が近いねぇ』なんて大したことないって態度でいるくせに、桜が咲いた途端、浮かれだして、やれ花見だの祭だのと騒ぐのよ! どうして桜前線はあるのに梅前線はないのよ!」
まるで本当に口から火を噴いているんじゃないかと思う程に、怒涛の気炎を彼女は吐くが、毎年の恒例行事だと分かっている幹久は動じない。
「本格的に春が来たってことだろうね。日照時間が長くなって日中はぽかぽかする。その本格的な春の象徴が桜じゃないのかな?」
「梅だって初春の花よ」
「うん、でも、まだ冬の時期が抜けきっていないから、場所によっては雪も降るしね。桜を迎えて、みんな春だと思うんだ。それに桜の花は派手だからねぇ。一つの花の芽から幾つもの花枝を伸ばして花開くものだから、みっしりと密集して光り輝く枝のようだ」
「それに比べて梅は花が散ったあとで寂しいものね」
桜の灰茶色の木肌と違う、茶色の枝を彼女は撫でて溜息を零す。
「そう? もうすでに小さな若葉と梅の実が結実しているじゃないか」
幹久は薄っすらと笑みを浮かべながら、彼女へと手をのして、少しばかり膨らんだ頬を優しく撫でていく。
「よく目にするソメイヨシノは種を身籠らない。あれは挿し木で増えていく命だから。散ってしまえば後には何も残さない……まあ、そこが潔くていいって人もいるけどね。でも、梅は実を残すだろ?」
「……うん」
「実った梅の実で梅酒を作ったりジャムを作ったり……まあ、作るのはばあちゃんなんだけどさ。梅干し入りの茶漬けとか美味いよなぁ」
「食べる事ばっか」
「うん、そうして今年も良い実を作ってくれてありがとうって感謝して、また来年も美味しい実を作ってくれよなって未来のことを思うんだ」
切々と語られる言葉に、少女の表情は和らぎ、やがて、うんといってうなずいた。
「それにさ、冬の寒い日にも咲いている所を見ると、何だか慰められているなーって思うんだ」
「そんなつもりはなかったけど」
「そう? でも、学校でいじめられて、この木の下で泣いていた時さ、微かに花の匂いがして、顔を上げて見たら青い空の下で一輪だけ咲いていて、それがすっごく、暖かいと思ったんだ」
少女は幹久の言葉に返す言葉もなく、ただ、立派な枝に頬杖をついて遠くをの眺めるのみ。
「眠くなっちゃった?」
「うーん、そう、ね」
「もう日が沈んで寒くなってきたし、今日はこれで眠りなよ」
「うん、そうする」
少女はそう言うと両手を組んで上へと背伸びをすると、まるで夜気に溶けるようにして消えてしまった。後に残るのは、ただ、梅のみ。
「おやすみ。また、会えるのは来年の春かな?」
きっと、また桜ばっか騒がれてズルいとか言いながら彼女は現われるのだろう。
去年もそうだったし、今年もそうだった。
来年も、またその次の年も、梅の木が枯れない限り彼女は現われて文句を言うけれど、それを楽しみにしている自分がいる。
それはささやかな幹久の秘密だった。
「今年も楽しみにしているよ、梅の実」
幹久は労るように梅の木を軽く叩いていくと、家の中へと戻っていった。
最初のコメントを投稿しよう!