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エピソード1:見えざる矢が死を司る-1
週末を控えた木曜の昼過ぎ、気温は上がり、空は晴れ渡っていた。
しかしセオドア・スペンサーの心は浮かない。天気でたとえるのなら、雲がどんどん広がっているところと言える。茶色がかった髪に五指を突っ込み、頭皮をがりりと刺激してみたが、よい考えは最早何も出て来ない。行き詰まっていることを改めて自覚したに過ぎなかった。
刑事として難問を抱えたスペンサーは、最後の手立てとして、ウィングル魔法医院を訪れることを決意した。正確には、ウィングル医師の知恵を拝借することを。
(頼りすぎると癖になるから、ほどほどにせねばと思ってるんだがなあ)
心中、ため息をついた彼は、それを機に気持ちを切り替えた。事件解決こそ最優先事項である、と。
* *
「ウィングル先生。今、お暇ですかな」
「ご覧の通り、幸いにも暇ですよ、スペンサー刑事」
診察室にスペンサーを迎えたウォーレン・ウィングルは、相手に丸椅子を勧めた。芝居がかった口調で続ける。
「さてさて、どこの具合を悪くされたかな。見たところ、大悪党と大捕物を繰り広げて、手足の一本や二本を折ったという風ではないですね」
「いえいえ。分かっているでしょうに、人が悪い」
苦笑いを浮かべるスペンサーを、ウィングルは頭のてっぺんから革靴の爪先までじろじろと見回した。
「うん、少なくとも見た目は健康そのものだ。敢えて言うとしたら、前回お目にかかったときより若干、二枚目になっているような。女性にもてて困っている病ですか」
「まったく……。そういえば、フェイド君の姿が見えないが、どうしました」
看護婦の名を口にしたスペンサー。ウィングルは南向きの窓の方へ首を振った。その拍子に彼の赤毛が日の光を一瞬浴びて、燃え上がったかのように見える。
「ちょっとした買い物があると言うので、送り出したところです。なので、只今、お茶が出せません」
「一人しかいない看護婦を外にやるとは、本当にお暇なようですな」
「利用者が少ないほどいいのは、警察と病院の共通点。ただ、困ったことに、警察はそれでも給料をもらえるが、僕のような医者は干上がってしまう」
「ちょうどいい。先刻ご承知と思うが、知恵を貸していただきに来た。捜査が難航しておりましてな」
「最近は遠慮がなくなってきましたね、スペンサー刑事」
「いや、これでもこちらに足を向けるまでには多少の、いや大きな葛藤があったんです。ともかく概要を聞けば、先生も興味を惹かれることを請け合いますぞ」
「一日で片付くような話でないと、困るんですがね。いくら暇を持て余していると言ったって、明日の午後は、往診に出掛けなければいけない」
「それまでに解決できなかったときは、往診の合間に考えてもらえれば」
「調子のいいことを」
そう言いながらも覚悟を決めたウィングルは、帳面を取り出し、机の上で広げた。自分の職業とはまるで無関係のことに使う、言わば雑記帳である。
「話してみてください。予めお断りしておきますが、手に負えないと思ったときは、早々に引き下がらせてもらいます」
鉛筆を構えたウィングルを前に、スペンサー刑事は一瞬、にやりと嬉しそうに表情を崩した。「ありがとう」と短く言い、捜査中の事件に関して話し始める。
「事件は一週間前の週末に起こった。いつものように、殺しです。被害者はビンス・マクローナルなる男性。自宅に一人、部屋で新聞を読んでいるところを刺し殺された。年齢は、亡くなる二週間前に五十になったばかりでした。仕事は農家で主に小麦を作っている。この辺じゃありふれた農家の主ですな」
「待ってください。どうも聞き覚えのある名だ……ああ、その人物の息子がこの春から街のサンクレア病院勤務になったはず。ビンス・マクローナル・ジュニア、腕の立つ外科医だと聞いています。サンクレア病院そのものは、治しさえすればいいだろう的な感じがして、いい印象を受けませんでしたがね」
サンクレアに行った際の諸々を思い出し、少し眉間にしわを寄せるウィングル。
「ほう。実際に会ったことは?」
「父親とは面識がない。普通ならどんなに健康でも、年齢から言って健康診断でこちらに来てもらっていておかしくないんだが、どうやら息子さんが診ていたようですね。そのジュニアとは会ったことが一度だけあります。夏に交流名目で、サンクレア病院を訪れた際にね」
「なら、少しだけ話が早くなる。面識がおありならジュニアが先生と同じように、単なる医師ではなく魔法医であることも分かったでしょうな?」
「ええ。尤も、僕の術と彼のそれとでは、だいぶ違いがあります。僕は魔法そのもので病気や怪我の根本を治そうとするのに対し、彼は魔法を用いてメスや鉗子などの手術道具を精密な動作で操り、科学に基づいた手術を行う。僕は彼のようなやり方をするには平々凡々な医師に過ぎないし、逆に彼は僕のやり方はできません」
「そのことは当人も認めてましてね。端的に言えば、遠隔操作魔法が使える。それも手術を素早くこなせるくらいに細かな作業が可能だそうですね?」
「はい、そう聞いています」
「で、話がちょいと前後してしまいましたが、ここからが肝」
スペンサーは意味ありげに片目を瞑った。ウィングルは興味をかき立てられつつも、表面上は平静に、つまり黙って話の続きを待った。
「実はビンス・マクローナルの死に様が、凶器の遠隔操作によるものとしか思えないんですよ」
「ふうん。衆人環視の状況で、空飛ぶナイフに切り裂かれたとでも?」
「いえ。内側から閂の掛かった部屋の中で、腹を突き刺されて死んでいた。内臓にまで達する傷だと報告を受けています」
「……被害者宅の鍵は全て、魔法錠なんでしょうね」
従来品の通常の鍵では、魔法を使われると、外からでも簡単に開けられてしまう場合が多々ある。それを防ぐために、魔法錠が普及している。国がお抱えの大魔法師と科学者に命じて開発した用具で、いかなる魔法を持ってしても錠の開け閉めは不可能。鍵だけが開閉できる。「魔法錠の周りのドアを壊せばいいじゃないか」と考える不届き者が出ることをも想定し、そのような破壊が行われると即座に感知して、警告音が盛大に鳴り響く仕組みも備わっている。
「無論です。いくらこんな田舎でも、魔法錠は常識だ」
「魔法に頼らない手段、たとえば糸を隙間から通して、扉の外から閂を掛けられるなんてこともない?」
「無理ですね。馬鹿々々しいですが、あれこれ試しましたから間違いない」
「試したというからには、密室殺人だと認識しているんですね」
「ああ。そういう言い方もありましたっけ」
やや吐き捨てるような口ぶりになったスペンサー刑事。彼は、この手の“あり得ない”言葉を使いたがらない質だ。しかし、実際に起きてしまった事件だからやむを得ない。
「ただし、密室状態だったのは、遺体のあった部屋だけですよ。家全体で捉えるなら、玄関が開いていた。被害者の在宅中に襲われたのなら、玄関が空いていてもさほど不自然じゃない」
ウィングルはメモを取る手を止めた。
「それにしてもおかしいな。さっき言われたような状況になるのは、何も凶器の遠隔操作ばかりじゃないでしょう。普通に刺し殺したあと、鍵を掛けたまま、脱出できたとすれば、同じことになります。たとえばガラスを破って外に出たあと、ガラスを修復魔法で元通りにするとか」
「説明はまだ全部済んじゃあいませんよ、先生」
にやりと余裕たっぷりに笑う刑事。ウィングルは再び鉛筆を構えた。
「現場を綿密に調査したところ、魔法痕が残っていました。修復魔法なんかじゃありませんよ。遠隔操作の魔法を使った痕跡が、波紋として感知できたんです」
魔法を行使すれば、現場一帯に痕跡が残る。と言っても、それは目に見える形ある物ではなく、また、他の感覚でもとらえられない。警察が導入した特殊な装置によってのみ、波紋として感知可能なのである。
通常、魔法が使われてから向こう三ヶ月程度なら、どんな魔法が使われたかまで特定できる。調査は早ければ早いほどよく、たとえば犯行から数時間程度までなら魔法痕から魔法を行使した人物の個体識別すら容易で、それが犯人逮捕の決定的な証拠となる場合も多々ある。
「捜査に着手できたのが、犯行から推定三時間ほどしか経過していなかったおかげで、魔法を使ったのはジュニアであると分かりました」
「スペンサー刑事。僕に相談しに来た理由が分からなくなりましたよ。犯人は明らかなのではないですか」
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