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流れ者の男が竿と斧を担いでこの村にあらわれたのは、青々とした葉が太陽に照らされ艶めくある季節のことだった。
髭をたくわえ、野暮ったい格好をした男の姿は、村の中で浮いていた。
家族はいないらしい。春は海の近くに集落を築き漁業を行い、夏から冬にかけては山間に移動してそこで伐採や農耕をしながら生活をするような民族の人間らしい。元々少数だったその民は、肩を寄せ合い生活をしていたものの、やがて少しずつ数を減らし、とうとうその民の最後の一人となったのが、あの男らしい。流れ流れて立ち寄る先で悪さをしているお尋ね者らしい。人を殺めたこともあるらしい。
誰も近づきはしないものの、男の”らしい”話は、常に村人たちの話題に上がった。
なぜ全て”らしい”なのかと言えば、情報が何もかも人伝いのものであるからだ。流れて来る噂話に次から次へと村人が思い浮かべた想像が重なり、尾ひれがついて膨らむものだから、どこまでが真実なのかはもうわからない。
無愛想な男の姿は村のいたるところで見かけられるにも関わらず、どこに住み始めたのかも、今どのようにして生計を立てているのかも、誰も知らなかった。
目が合えばギロリと睨み、眉間に深い皺をつくる。だが、固く結んだ口が開かれはしない。
よそ者である男を疎ましく思いこそすれ、直接何かを言うのも憚られると、村人たちは心の中で悩んでいた。
なので仕方なく、みんな遠巻きに様子を伺うのであった。
ある日、男が村の中心にある大木の前に立ったとき、事件は起こった。
そこは男が初めて訪れる場所だった。広場の真ん中に真っ直ぐとのびる大きな桜の木は、この村の象徴とも言えるものだ。その木を目の当たりにした男は、わずかに顔を歪めると、踵を返しどこかへと去って行った。
村人たちは首を傾げながらも、また談笑に勤しむ。
しばらくして男が戻って来た。肩に斧を担いでやって来た男を目にし、村人たちの会話はまた中断される。
息をのんで見つめる村人たちを前に、桜の木の下に立った男は持っていた斧を大きく振り上げると、その太い幹に向かって刃を突き立てた。
「何ということを!」
村人たちは一斉に叫び、男を制した。
「これは大事な木なのです」
「傷つけてはいけない」
「罰当たりなことはおやめなさい」
非難を浴びた男は、ギロリと村人たちを睨むと、わずかに口を開きかけたのだが、そこから声は発せられず、結局何も言わないまま斧を担ぎ、去って行ってしまった。
斧を自分たちに向けられるのではとヒヤヒヤしていた村人たちは胸を撫で下ろす。
そしてしばらく、男の姿が見られることはなくなった。
木々が色づき始める頃、男はふたたびあらわれた。あの日のように斧を担いで、男はまた、桜の木の下に立っていた。
流浪の者だ、どこか別の村にでも移り住んだのだろう、と考えていた村人たちは、久しく見ていなかった男の姿に驚き、手にした斧に慌てた。
無愛想な顔で木に向かい斧を振り上げる様は、以前見た光景と全く同じだった。
村人たちもまた、同じように男を制する。すると男はあの時のように、何も言わずに去って行ってしまった。
「何か訳があるんだ」
「切ってしまおうとするほど憎いのだろうか」
「桜の木が何をしたと言うのさ」
「きっと嫌いなのだ」
「そうに違いない」
村人たちは噂した。
そしてまた男は、姿を見せないようになった。
村が白く染まる頃、男は同じ場所に同じ様子で立っていた。違うのは服装に厚みが増したことくらいだった。
「どうしてそこまでして切り倒そうとするんだ」
辛抱堪らなくなったのか、村人の一人が尋ねた。それはみんながずっと抱いていた疑問だった。
男の視線が、村人たちをとらえる。
「そこに木があるからだ」
振り上げていた斧をゆっくりと下ろし、ようやく男は口を開いた。
「俺はかつて木を切り、暮らしていた。だから知っている。自然には許容量ってもんがあることを。養分の限界さ。花や果実を育てる時のように、木も間引かなければならない。こんなに大きくなるまでほっといてしまってはどうしようもない。他の植物たちの栄養まで吸ってしまっていたらどうする。それなのにお前たちときたら。何てことはないただ大きいだけの木になぜそこまで固執するんだ」
憎い訳ではない。嫌いな訳でもない。ただ、自然の摂理として、生物のバランスをとるための行為であっただけなのだろう。
よそ者というだけで噂を鵜呑みにして、穿った見方をしてしまっていた村人たちは思わず口をつぐんだ。
ただ、男もまた、誤解している。この木はこれまでも、これからも、あるべき理由がきちんとあるのだ。
年老いた村人が諭すような口調でこう言った。
「あなたが知っていることを私たちは知らないかもしれないが、私たちが知っていることもあなたは知らないのですよ」
男は意味がわからない、と首を振る。
「雪が解けて命が芽吹き始めた頃、またこの木の下に来てみるといい」
そうすれば、きっと答えがわかるだろう。村人の言葉に、男は疑いの表情を見せたが、それでも言われるがまま、次の季節へと移ろうまで、木の下にあらわれることはなかった。
命が顔を出す。柔らかい風が花を掬って、時々薄桃色の花びらを散らしながら空を染める景色の中に、その木は立っていた。
周辺には酒を酌み交わしたり、サンドイッチを頬張ったり、思い思いに楽しむ村人たちがいた。
あの時の言葉に従い男はやって来たが、囲む様にして座る村人たちの中心に立っているだけで、斧を振り上げようとはしていなかった。
桜の木の下、瞬きをすることなく、ただじっと。男はそこに立っていた。
「見事でしょう」
年老いた村人は男の隣に来ると、そう声をかけた。
「前にお前たちがしていた話、半分は事実なんだ」
顔を村人のほうに向けることなく、男は言った。
「嫌でも耳に入って来た。あることないこと噂話をされて腹は立ったが、そもそもここはお前たちの村なのであって、俺はよそ者なのだから仕方がないと思ったし、身寄りがいないのも、居住を移す民族の出なのも本当のことだ。春は海へ、夏から冬の間は山へ。山にいる間はひたすら斧を振って木を切り続ける。だから木なんて家や道具をつくるための材料としか考えていなかった」
吸い込まれるように見つめる先の薄桃が、ひらひらと揺れる。男は微動だにせず、それに釘づけであった。
「こんなにも美しい花を咲かせるものなのか、桜という木は」
手から滑り落ちたらしい斧が、地面に横たわっている。もう男にそれは必要ないようだ。
「こんなにも、人の心を解かすものなのか」
そう言って、男は初めて、口元を緩ませた。
完
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