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 その思いが天へ通じたのだろうか。  午後八時近くになって、ようやく帰って来た良枝はいつもと変わらぬ佇まいだった。  但し、片手にぶら下げた大きなビニール袋の中身はいつもと違う。  一番上にあの限定版リンゴ・リングが入っており、他にもソーセージやら冷凍食品のハンバーグやら、達樹達にとって御馳走の食材が詰まっている。  一番奥に見え隠れする赤いリボン付きの包みは、おそらく早苗への誕生日プレゼントなのだろう。  あのショートケーキの形をした建物の中で、母の経済状況は一気に好転したらしい。  その理由が何なのか、達樹は考えたくも無かったが…… 「あ、お母さん、そのパン、道で拾ってきたんでしょ?」  リンゴ・リングを一目見て、早苗は飛び上がり、大声を上げた。 「……拾ったって、どういう意味?」 「あたしが落としたパンの欠片、お菓子の家から逃げる時、一つずつ拾って来たんじゃないの?」 「は?」 「魔女をやっつけたおまじないの力で、ちぎったパンを元に戻したんだよね?」 「はぁ!?」  目をシロクロしている良枝を他所に、慌てて早苗を廊下へ連れ出した達樹は、その耳元で囁く。 「早苗、お母さんに化けた魔女の話、二人だけの秘密にする約束だよな」 「そうだっけ?」 「変な事を言うと魔女が蘇って、又、お母さんが捕まっちゃうかも」 「えっ!」  慌てて早苗は両手を口に当てる。 「それに、子供だけで遠くへ行ったのがばれたら、母さんに叱られちゃうぞ」  口を塞いだまま首を縦に振る早苗をつれ、達樹は母のいる居間へ戻った。 「……何よ、今の? お母さんに何か隠し事かしら?」  訝し気に二人を見る良枝へ達樹は、いつも通りの『頼れるお兄ちゃん・スマイル』で答える。 「何でもない。僕が教えた御伽話を早苗が気に入っちゃってさ」 「……そう」 「それより、母さんの方から僕らに何か話は無い?」  母が返事をするまで僅かな間が生じた。 「別に無いけど」 「ホント?」 「ん~、そうね、でも、もしかしたら、その内……ちょっと良い事あるかも」 「どんな?」  達樹の問いに対する沈黙は、前よりずっと長い。  内心の動揺を押し隠し、達樹も口をつぐんでいると、母は躊躇いがちに言った。 「達樹さ、あんた、新しいお父さん、欲しいと思った事ない?」  その瞬間、微かにその頬が上気し、はにかむ笑みが口元に浮かんで、達樹は思わず目を逸らす。  あの男に見せたのと同じ顔。  いつもの母とは違う、見覚え無い女の……魔女の微笑だ。 「ないよ」  素っ気無く答える達樹の隣で、早苗はフンフン鼻歌を口ずさみ、ビニール袋の中身を気にしている。 「……どうして?」 「別に、ただ要らないだけ」 「暮らしは今より楽になるわ。達樹の給食費が遅れず払えるし、家賃の心配だってしなくて良い。毎日、今よりずっと美味しいものが……」 「でも、それって誰かのお父さんを盗む事になるんじゃない?」 「えっ!?」  一瞬で良枝の表情が凍りついた。  恐怖と躊躇いが交錯し、探るような眼差しが達樹へ真っすぐ突き刺さる。 「いやだな。僕はそれ、いやだ」  本音が自然に口から出た。  その言葉には、これ迄と変わらぬ母でいて欲しいとの強い願いが込められていたが、良枝には届かなかったらしい。代りに感情の激発を誘った。 「だって、しょうがないじゃない! あたし、あんた達の為に……何時だって、あんた達の事だけを考えて……」 「うそをついたら、ぐれちゃうぞ」  冗談めかして言うつもりが、達樹自身も驚く程、乾いた声になる。  絶句した良枝は息子から顔を背けた。  高ぶった感情は何処へ行ったのか、言い訳を止めた唇を噛み、眼差しはぼんやりと虚空を彷徨っている。  家を出て言った時に見せた父の薄笑い、冷淡さに対する違和感や怒りとは違う、もっと空虚で掴みどころのない何かが、達樹の胸の奥で渦巻いていた。  母の長過ぎる沈黙に堪え切れず、彼は口の中で小さく呟く。  僕が早苗を守らなきゃ。  たとえ何時の日か、悪い魔女をかまどで焼く時が来たとしても。 「ねぇ、このパン、早くしないと早苗一人で食べちゃうよ!」  家族の間に漂う淀んだ空気をかき消すように、早苗が大声を上げ、勢いよくパンを頬張った。  あ、空気読みやがったな、コイツ。  パンを掴み上げた時、袋の奥の赤いリボンがはっきり見えたから、気付かなかった筈は無い。  でも、幼い妹はパンにしか興味が無い顔で、良枝の分、達樹の分、とリンゴ・リングを等分にちぎり、二人の前に置く。 「あ、早苗、コレ……」  良枝がプレゼントを取り出そうとするが、早苗は今日一番の大人ぶった素振りで母親の手を止めた。 「まだ、ダメッ!」 「どうして?」 「お誕生日会はね、悲しい顔をしてる間はやっちゃダメって、タカちゃんが言ったんだもん」  良枝は又、絶句した。でも、娘を見つめるその瞳は、もう虚ろでは無い。 「んじゃ、プレゼントを渡す役はお兄ちゃんね。で、お母さんはあたしにペンダントを掛ける役」 「……オイ、何でお前が仕切ンだよ?」  首をかしげてみたものの、何の答えも思いつかなかったらしい。  早苗は只、ニコッと笑って、赤いリボンが見え隠れする袋を達樹へ押し付ける。そして良枝の首に紙のペンダントを掛けた。掛けて、そのまま身体を寄せ、小さな手で母の背中を撫でる。 「良かったね、お母さん。お菓子の家を出られて」 「……早苗」 「おまじないで、次はあたしが守ってあげる」  何か言おうとし、首をかしげてみたものの、良枝は何も言わなかった。多分、何の言葉も思いつかなかったのだろう。  代わりに背中を撫でる柔らかな感触を味わいながら、深く俯き、体を震わせた。間も無く、すすり泣きの声が聞こえる。  それでも早苗は優しく背中を撫で続ける。  あぁ、コイツ、やっぱ気ィ使ってやがンの。  そう呟いた達樹の目に、今は声をあげて泣く母の姿が小さく見えた。  寄り添う妹より、むしろ小さく、弱々しく……もう「悪い魔女」じゃない。それだけがはっきり判る。    早く大きくなって、僕が守ってやるべき、もう一人の「グレーテル」。  新たな決意を胸に、達樹も目の前に置かれた「限定版リンゴ・リング」のちぎれた一片を口へいれてみた。  奥歯で噛み締めると、シロップ代りにたっぷりチョコの掛かったそれは、想像していたより少しだけ苦かった。
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