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 おにいちゃん、お腹すいたよ……  都内の公立幼稚園が子供を預かるタイムリミット、午後二時寸前に達樹が辛うじて辿り着くと、正門横に立つ妹が小さな声で囁いた。  その首には草花を編んだ輪が二本掛かっており、『さなえちゃん おたんじょうび おめでとう』と幼い文字で書いた紙のメダルも付いている。  もう他の子どもは全部帰ってしまったようで、早苗は一人ポツンと佇んでおり、少し潤んだ眼差しから達樹は思わず目を逸らした。  う~、なんちゅう切ない言い方すンだ、コイツ。  わかってるよ。今日、三月七日はお前の五才の誕生日……待ちぼうけさせてゴメンな。まだ結構寒いのに……  湧き上がる罪の意識を噛み締め、兄貴として達樹はそう伝えたかった。  でも、ゼェゼェ息を切らして呼吸が定まらず、手を繋ごうと身を寄せる早苗へ微笑むのが精一杯だ。  小学五年生の彼が五時間目の授業とホームルームを終え、教室を飛び出したのは午後一時四十一分。二キロ弱の距離があるここ、みなみ谷幼稚園までず~っとノンストップのフルダッシュ。  何で僕、こんなに慌てなきゃいけないんだろ?  達樹は内心ぼやいた。  そもそも、今日は彼が妹を迎えに来る番じゃない。    八王子市のベッドタウン、みなみ谷の駅前にあるクリーニング屋で彼らの母親・水上良枝が働いており、今日は「上がり」が早いローテーションだから、任せて大丈夫の筈だった。  友達の家でゲームでもするつもりだったのに、下校時、いきなり母のお下がりガラケーが鳴ったかと思えば、 「店員が一人、風邪で休んじゃったの。代りに入れって店長の泣きが入ってさ。悪いけど達樹、幼稚園まで早苗を迎えにいってちょうだい」  と否応なしのお願いが飛び込む。 「急に言われても困る! 僕にだって予定とか、色々……」 「そこを何とかお願いっ!! 店長、時給を朝へ遡って割増しするって言うのよ。オイシイでしょ? 見逃せないでしょ?」 「でも……」 「達樹、あんた、あたしが幾つもパートを掛持ちして稼ぐ理由、わかってるよね?」 「それは、え~……よ~するに、ウチがビンボ~だから?」 「去年から続くバカみたいな物価高騰の折り、先月の家計簿によりますと」 「はぁ……」 「あたしの稼ぐ生活費の七割二分が食費にもっていかれ、家賃を払うと三か月連続の大赤字なのですよ! 赤字も赤字、まっかっか」 「そんなメンド~な話をされてもさぁ。僕、算数とか苦手だし」 「言わずにいられない気持ちもわかって欲しいなぁ。ウチのエンゲル係数、ど~んだけ高いか、計算するのも怖い位だもん」 「エンゲルって何? 食えるの、ソレ?」   「あ~、小学生に言ってもわかんないか」 「当たり前だのクラッカー」 「何処で覚えるんだろ、そんな言い草……ぶっちゃけ、エンゲルってね、あなた達二人が毎日ガッツリ食べる分、他は何~ンにも買えないって事かしらね」  達樹は、思わず携帯電話に向け、唇を尖らせた。小学生にそれを言っても始まらないだろ、とつくづく思う。  でも、良枝の苦労も子供なりに達樹は理解していた。  ヤンキー同士、二十才ソコソコで出来ちゃった婚。挙句、十年もたずに離婚した前夫=達樹達の父親は恐ろしく無責任な奴だ。  養育費を入れる所か、雲隠れした後、完全に消息不明の有様であり、生きているのか、おっ死んだのか、それさえはっきりしない。  二年ほど前だったか?  父が家から出て行った日の朝、いつも通り仕事へ行く振りをし、ふと玄関で振り返った瞬間を達樹は良く覚えている。  台所ですすり泣く母を一瞥。  当時九才の息子に対しては、視線を感じていた筈なのに、目も合わさなかった。  代わりに不自然な笑みを浮かべる。酷くニヤけて、感情の伺えない薄っぺらな微笑……幼い胸に焼き付けられた強烈な違和感……  あれはきっと家族を捨てる決心を、既に固めてしまった男の顔なのだろうと、後になって達樹は思った。  早苗は赤ん坊だったから、勿論、父の顔など全く覚えていない。  今、何処かで会ったとして見分ける事さえできないだろうし、その方が幸せなんじゃないかとも思う。  だが最悪の父とは言え、一家の働き手を失う痛手は深刻だった。  生活保護こそ受けていないものの、先が見えない母の焦りや苛立ちは募るばかりだ。時折り、ささくれた感情の棘がこちらへ容赦なく突き刺さってくる。 「ねぇ、ムダ話してる余裕は無いの。お迎えに遅刻すると、幼稚園のペナルティ食らっちゃうんだから」 「でも二時までじゃなぁ。メッチャ走っても間に合うか、どうか」 「その内、何かお礼するから、お願い! 今日は早苗を一人で待たせたくないの。だって、今日はあの子の……」 「早苗の、何?」 「良いから、お願い!!」  そう一方的に言われ、言い返す前に電話を切られてしまった。  となりゃ兄貴の立場上、妹を迎えに行くしかないが、あの言い方からして、今日が早苗の誕生日である事、良枝はちゃんと意識していたのだろう。  母は母なりに、それらしく祝ってやれない罪悪感があるのかもしれない。  達樹だって妹を喜ばせてやりたい気持ちだったら、誰にも負けない。でも生憎、ズボンのポケットをまさぐってみてもお小遣いは290円しか残っていない。  金額的に微妙すぎるのだ。
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