1、ハナノミチ高等学校〈八島あすか〉

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1、ハナノミチ高等学校〈八島あすか〉

ゆっくりとまぶたを開くと、ぼやけた視界に、ひじきをぶちまけたみたいなトラバーチン模様の天井が見えた。これは大理石をイメージした柄らしいけれど、平成も30年目を迎えた今の世を生きる高校生の私からしてみれば、顕微鏡で変なものを覗いてしまったかのような模様に古めかしさしか感じない。思い返してみれば、小学校も中学校もこの天井だった。そして、それはハナノミチ研究所お抱えの私立高校であるハナノミチ高等学校も例外ではなく、その天井を私はぼんやりとした頭のまま見つめていた。 ベッドを仕切る淡いピンク色のカーテンに日が差し込んでオレンジ色に照っている。鼻を付くのは湿布や薬液の匂い、それと、清潔なシーツからほのかに漂う馴染みのない洗剤の香り。そのパリッとした布に、冬服にしたてのブレザーのまま包まれていて少し心地が悪かった。それでも、私は今までぐっすり眠ってしまっていたようだった。 あまりにも静かで何も音がしない。きっとこの保健室には私以外に誰もいないと感じた。上の階では1000人あまりの生徒が、区切られた狭い教室で各々の授業をしているのが嘘みたいに、穏やかな時間が流れていた。真面目に時間割通りの授業を受けて、社会の一部に組み込まれた規則正しさから、自分だけはみ出している背徳感があった。それは少しの間だけ鬱蒼とした気分を忘れさせてくれた。それでも、こんな時間は永遠に続かないのだと思うと、とたんに息を吸うのもおっくうになってしまう。 きっとそんな気分になるのは生理だからだ。股から赤い体液を垂れ流しているせいだ。目に見えないホルモンが均衡を崩して、心も体もむしばむせいだ。 いや、違う。生理じゃないときでも気分はずっと沈んでいた。 きっと秋だからだ。秋はさんさんと降り注いでいた太陽がなりを潜めて夜が支配する時間が増える。そして、暗闇に収束されていく。秋鬱。だから、私は暗い気持ちなんだ。 いや、それも違う。私は夏からすでに暗い気持ちだった。思えばそれよりもずっと前から私は精神を病んでいたのかもしれない。 私の憂鬱に理由なんてない。原因もない。何のせいにもできないから苦しくて気持ち悪くて、ただ弱い自分の心を責めた。 得体の知れない心の影を振り払えず、とうとう体調を崩して保健室のお世話になった。一眠りしたおかげか、今は体だけは絶好調になっていた。ありえないほどに体が軽い。今なら重力を無視して壁を走れそうな気さえしていた。 これなら6時間目の授業から戻れそうだ。そろそろ5時間目も終わる頃かと思い、スマホを取り出すと時刻は16:45だった。見間違えかと焦るが間違いない。これでは6時間目どころか帰りのホームルームさえ終わっている時間だ。 保健室の先生は何をしているのだろう。もしかして、私のことを忘れてしまったのだろうか。クラスメイトはどうだろう。いくら私に友達が少ないからと言っても親友の莉奈(りな)が来てくれないのはおかしい。スマホに連絡すらない。莉奈は朝だって私に手作りの甘くて美味しいクッキーを渡してくれたような親友だ。さすがに私のことを忘れるはずはないだろう。 ガバッと掛け布団を押しのけ、急いでベッドの仕切りのカーテンを開ける。目に入った校庭には普段なら野球部、陸上部、サッカー部などが練習に励んでいるはずなのに1人も姿が見当たらない。 何か非日常的なことが起きているのかもしれない。なんだか不気味なのに、憂鬱な世界が壊れていく感覚がして気分が高揚した。 しかし、ワックスがかけられた艶やかな木の床にぐったりと横たわる保健室の先生を見た瞬間、一気に恐怖が現実となって押し寄せ、血の気が引いていくのがわかった。
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