天使と英雄

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天使と英雄

 死んだと誰もが思っていた。生還は絶望的だと専門家も断じた。多くの死傷者を出しつつも援軍が来る直前まで部隊を持ちこたえさせたウィリアム・ヨハン・シャルレー少佐は生きていた。だが、その身体はぼろぼろで生死の境をさ迷い続けている。  彼も爆撃に巻き込まれ、がれきの下敷きになりはしたが、奇跡的に救助された。生きて病院に運び込まれただけ奇跡のようなものだった。左足はもげ、顔の半分近くが著しく傷つき、内臓の大多数を損傷し、肋骨や骨盤にも骨折や亀裂がある。死んでいる方が自然なほどの大怪我だった。  だが、彼は幸運にも生きていた。大手術と大量の輸血を経て、容態はどうにか安定している。麻酔だけでは足りないほどの痛みに苦しむ彼には医療用麻薬が投与され、意識がもうろうとしていた。  それでも麻薬が切れるころになると痛みで覚醒する。痛みに目を開けるとそこに金の髪に青い瞳のかわいらしい少女が立っていた。その背には白い翼がある。人ならざるものがそこにいる。ああ、もう死ぬのだとウィリアムは思った。  命に未練があるわけではない。元より軍人として国に捧げた命だ。殺される覚悟も、死ぬ覚悟もしていた。ただ、どうせ死ぬならもう少し楽に死なせてほしかったと思うばかりだ。  軍人である以上、その手は血塗られている。将校といえど、激戦地に身を置いたのだ。その手で屠った命も少なくない。多くの部下に殺せと命じ、死地に突撃させたのも一度ではない。そんな己に罪がないとは思わない。だが、死の苦しみが延々と続くのは罰だとしても重過ぎるのではないだろうか。  こうして迎えに来るのであれば、もっと早く死にたかった。けれど、迎えに来たのが悪魔ではないのはどうしてだろう。天使のふりをした悪魔なのだろうか。それとも―― 「俺は、許される、のか……?」  少女は悲しそうに目を伏せて、彼の額に浮いた汗を拭うと、ナースコールを押して去って行った。すぐに駆けつけた看護師が医療用麻薬を追加すると彼はまた眠りへと落ちていった。  そんなことが数回あった。時には手を握られていることもあった。もしかしたら彼の意識がない時も少女はそこにいるのかもしれない。麻薬が必要なくなり、意識が保てるようになると少女はそばに来なくなった。ドアからこっそりのぞいている気配に視線を移すと少女の翼らしきものは見えるが、判然としない。少女は麻薬の見せた幻だったのだろうか。  日中に少しベッドを起こしてもらえるようになると少女と目が合った。少女は目が合うと慌てて逃げて行った。ぶかぶかの服を着て足に包帯を巻いていたようにも見える。少女は幻ではなかったらしい。少女はそうして何度も何度も彼の元を訪れた。 「白い翼の女の子ですか?」  痛み止めの点滴の交換に来た看護師に問うと小首を傾げられた。 「はい。ドアノブよりは背が高くて、金髪で青い目の女の子です」 「どこかにこのロゴを付けていませんでしたか?」  看護師が目の前に掲げて見せてくれたのはデフォルメされたライオンのロゴだ。病院のロゴであるらしく、ここの医師や看護師もほとんどが身に着けている。思い返せば少女も胸に似た色合いのものが付いていた。 「付けていたと思います」 「やっぱり」  彼女はふと息をつく。 「その女の子はエレナと言って小児病棟に入院している子です。たまにベッドを抜け出していなくなるって情報共有はされていたんですが、あなたのところに来ていたんですね」 「その子は病気で?」  彼女は曖昧に笑う。入院の理由は個人情報だ。軽々しく聞くべきではなかったかもしれない。だが、彼女は再び口を開いた。 「シャルレーさんは意識がなかったから覚えていないんですね。一緒に運び込まれたんです。救助されたときにはあなたに縋りついて泣いていたらしくて……なにか覚えていませんか?」  頭がズキリと痛む。あの日のことは何もかも思い出せない。前日のことならかろうじて覚えているのだが。 「なにも覚えていないんです。猛攻を受けて本部が包囲されたことまでは覚えているんですが、怪我をした当日のことはなにも」 「そうですか……あの子はベルエルの有翼族の孤児なんです。ベルエル語が話せるものが少ないので意思の疎通がうまく行っていないとも聞いています」 「ベルエル……」  形式的にはベルエルの敗北で戦争は終結したが、エルドレアが負った傷は深い。終戦宣言が行われたのもつい先日のことだ。その名を聞いただけで腹の底が冷えるような気がした。  病院は中立国のザイアにある。だから、別々ではなく、同じ病院に運び込まれたのだろう。 「戦争は終わりました。子供に罪はありません。寛大な心で受け入れてあげてはもらえませんか? シャルレーさんは複数の外国語に堪能だと伺っています。孤独な少女にやさしくしてあげてください」  ウィリアムは気持ちを落ち着けるために息を吐く。彼は隣接する国の言語はほぼすべて習得している。病院のスタッフが話すのは当然ながらザイア語で稀にエルドレアやベルエルの言葉を話せるものがいるらしいのは察した。ウィリアムは意思の疎通に困ったことはないが、ベルエル語しか話せない少女は寂しい思いをしているだろう。  彼女の言う通り、子供には罪がないのだ。戦争を始めたのも、続けたのも、終わらせたのも大人だ。 「そうですね。逃げられなかったら声をかけてみます。痛みに苦しむ私の代わりに何度もナースコールを押してくれましたからね」 「そうだったんですね。おかしいと思った」  看護師はくすくす笑う。本来ならナースコールを押せる状態ではなく、モニターで監視されていたのだという。だから、痛み止めが切れるころにナースコールが鳴るのは不思議だとナースステーションで話題になっていたらしい。 「私がよっぽど何かをしたんでしょうね」 「シャルレーさんはやさしいからきっと素敵なことをしたんですよ」  看護師は空の点滴を片付けて去って行った。 「やさしい、か……」  小さく呟いてため息を吐く。軍人には不要だと再三言われた。そんなにやさしくて敵が殺せるのかと上官になじられたのは一度ではない。やさしさとは弱さだ。雁字搦めになって躓いて、多くの命を失い、思い知ったはずなのに、結局やさしいと言われる。  だからPTSDなど患うことになるのだ。知識として知っていた。激しい戦闘により引き起こされることが多く、誰にでも発症しうるものだとも。けれど、心のどこかで自分とは無縁だと、心の病にかかるのは弱者だと思っていた。  陸軍中将の息子として育ち、士官学校を首席で卒業した。出世街道を駆け上がるエリート。誰もが彼をそう呼んだ。彼自身もそう思っていた。 自分は上に立つものであり、強者である。そう思っていた自分が弱者に含まれるのだと知ってウィリアムの苦しみはより深くなった。  ニュースで彼の率いていた部隊は壊滅状態だったらしいと察した。エルドレアは勝利したが、ウィリアムは敗北した。援軍があと少し早ければ、彼の部隊は壊滅しなかったが、劇的な勝利はなかっただろうということも彼には推測できた。勝利のために捨てられたという見方もできる。勝利したのであれば、あの日最後まであそこにいた価値はあったのだろうか。あたら多くの命を犠牲にしたのではないだろうか。  上層は兵士を数でしか見ていない。部隊に残されていた兵力は五百を割り込んでいた。投入された援軍は一万。捨てるには取るに足らない数字かもしれない。だが、誰もが生きていたのだ。必死に戦っていたのだ。それを捨てられたのではないかと考える自分にも腹が立つ。意識がかき乱されるのが苦しくてウィリアムは目を閉じる。これ以上考えてはいけない。  こぼれそうになった涙を押し込めて、ゆっくりと息をする。  不意とあの少女のことを思い出した。どうして何もかも失った彼に会いに来るのだろう。次に来たら怯えさせないように話してみようと彼は思った。
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