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既に折り返し地点
紅沖矢は、この訳のわからない洋館に連れてこられて、ここでの生活に意外にも溶け込んでいた。
酒が飲めないことだけは不満だったが、なにもしなくても食事が出る。家賃の心配をせずとも惰眠を貪れる。香水臭い女たちにへいこらしなくてもいい。いいこと尽くめだった。
しかし、夜型の生活が災いして、ここで真っ先にやらないといけない人間関係形成に出遅れていた。
死体が既に転がっている状態だったが、飲み屋で飲み過ぎて凍死した例、薬でバッドトリップし過ぎて死んだ例を朝帰りに目撃していれば、「うわぁ」以外の感情は全てシャットダウンする心がけはできる。
だから、「喉乾いたー」とラウンジに向かおうとして、ゴギャンゴギャンと聞こえてはいけない音を聞いてしまったのは、はっきり言って不運としか言いようがなかった。
「えー……」
紅は溜息をついた。
ホストクラブで働いて、裏口からときどきこういう音を聞くのだ。借金取りが取り分回収のために暴力を振るっている音を。それらは聞かなかったことにして引っ込むのが筋だが、ラウンジまで行くのに引き返して二階から端の階段を使うのも遠回りだ。
仕方がなしに、紅はゴギャンゴギャン言っている音の主に悟られぬよう、足を忍ばせて通り過ぎる選択をした。
ゴギャンゴギャンという骨の砕ける音。踏みつけられていく音。パリンパリンとなにかが砕け散る音。聞いていていいものでもないが、それらを無視して通り過ぎようとしたら。
「あのさぁ」
急に声をかけられ、紅は「ひっ」と喉を鳴らした。暴力装置みたいな男にはなるべく関わらないのが紅の処世術であった。
榛は誰かを踏み殺していたようだった。普通踏んだだけで人が死ぬことはないが、骨が粉々に砕けて、その骨が内臓に穴を空けたら普通に死ぬ。頭蓋骨ではなく、あばらを狙うところに、この男の厭らしさを感じ、紅は嫌な顔で立ち止まった。
「なんすかぁ? 俺今から飲みに行くんすけど」
酒が飲めない以上、せめて炭酸でも飲まなければやっていられなかった。毎晩浴びるように酒を飲んでいる身からしてみれば、ここでの生活は健全が過ぎるのだ。ニコチンも薬も興味がないが、酒だけは覚えてからは飽きることがなかった。
紅は榛が踏み殺していた相手を見る。小柄であり、どう見てもそれは中柴だった。引きこもりだと思っていた少年がなんでこんなところに来て、榛に踏み殺されているのか、その前後が紅にはよくわからなかった。既に血を流し続けて顔色が土色に変色しつつある。まだギリギリ生きているがこれは放っておけばいずれ死ぬだろう。
榛はやっとのことで、長過ぎる脚を中柴からどかした。既に血溜まりができて、いったいこうなるまでにどれだけ踏んだのかと絶句する。
「死体ってさあ、あの食堂の人? それが始末すんだよねぇ。ここさぁ、一応貯水槽なんだけどぉ、ここに置いててダイジョブ?」
「そんなん俺が知る訳ないじゃないっすか。放っときゃいいでしょうが」
紅は悲鳴じみた声を上げる。死体の始末なんて殺人鬼が勝手にして欲しい。巻き込まないで欲しい。紅自身自分自身がお世辞にもいい人間ではないという自覚はあれども、死んだばかりの人間の始末になんか巻き込まれたくはなかった。
榛は「ふぅーん」とだけ言って、キョロキョロとしはじめた。
「カメラーカメラー。見てるー? ここに死体置いとくからぁ。始末しといてねぇ」
コンシェルジュが通達していた監視カメラはどこかはわからないが、榛は適当にあちこち見回しながらそう伝えると、勝手に紅についてきた。紅は嫌々共にラウンジに向かったのである。
榛はラウンジをきょろきょろと見回した。
「ふぅーん。セルフサービスはあんま興味なかったんだけどぉ。ここおすすめあるぅ?」
「俺、ここで炭酸しか飲んでないっすよ……レモンスカッシュ、コーラ、ソーダ……なんか欲しいのありますぅ?」
「うーんとねぇ……」
紅はあまりにもの榛の自由さに、内心溜息をついた。
(なんで俺が男の接待してんだよ……)
しかし紅の骨身にまで染みついてしまっている接客業精神に加え、榛に逆らったら死ぬと死体とセットで見せられた以上は、逆らう気にもなれなかった。
今人を殺したところで、既にラウンジで飲み物を楽しもうとしているのだから、精神が他とは違うのだろうと思わざるを得ない。
「じゃあメロンソーダ」
「かしこまりました」
「アイスクリームねえの?」
(知らねえよ)
内心そう毒づいたものの、それはおくびにも出さず、紅はこの数日ですっかりと手慣れたセルフサービスのドリンクバーを使いはじめた。
緑色の炭酸弾けるそれを、グラスに注いで備え付けのストローを刺して差し出すと、榛は楽し気に飲みはじめた。
一銭の金にもならない接待をしてしまった。紅はそう思いながら、不快な気分を打ち消すようにドリンクバーを動かした。セルフサービスのジンジャーエールにしては異様に美味いそれをグラスに注ぎ、それで口を満たす。
それを満足げに飲んでいたところで「そういえばさあ」と榛が言った。
「さっきのナカシバ? あいつ下剤持ってうろついてたんだよなぁ。腹下したらやだから殺したけど、ここには下剤盛ってなかったのかなぁ」
「ブッ……」
飲みはじめてから言っていい話ではなく、そのまんま紅は噴き出した。ゲホゲホと気管に入ったジンジャーエールを必死で咳き込んで吐き出しているのを、榛はゲラゲラ笑った。
「ダイジョブダイジョブ。ここは下剤の匂いしねえからさあ」
「……なんでそんなもんわかるんすか?」
「殺すとき一番楽しそうなので殺すからさぁ。薬の匂いはそこそこ嗅いでんの」
そんないらん情報聞きたくなかったと思いつつ、紅は内心考えてから、口を開いた。
「そう……なんですね……でも、こんなに人が死にまくって、困らないんですかね?」
「なんでぇ?」
「指令。内容によっては人が死にまくっても困るし、死ななくっても困るじゃないっすかぁ。そこんとこどうなんで?」
ちらちらと紅は榛を見ていた。
榛は一瞬冷えた目で紅を見た。それに内心ビクビクしつつも、紅はヘラヘラと笑った。これでもホスト十年選手であり、顔に感情を出さぬ術は身に着けていた。
やがて、榛は「アハハ」と笑い飛ばした。
「なに。アンタこのペースで人死んだらと思って焦ってんの?」
「そんなんじゃないですよぉ。ただ、自分以外の指令を知らないんで、どうなのかなあと思いましてね」
「教えなーい」
そう言いながら、飲み干したメロンソーダのグラスをテーブルに置きっぱなしにして、手をひらひらと振った。
「メロンソーダごちそうさまぁ。頑張ってねぇ。面白かったらオレの指令教えてやってもいいよぉ。今のまんまだと、アンタ全然見てねえから、面白いかどうかわっかんねぇや」
榛が退散したあと、紅はひとりラウンジに残って「ケッ」と言いながらジンジャーエールを飲み干した。
(あの殺人鬼……マジで人を殺すことをなんにも思っちゃいない)
仕事上、裏の人間が飲みに来たのを接待したこともあるが、裏の人間には大概なにかしらのオーラがあった。しかし榛はしゃべる内容にも脈絡もない愉快犯で、完全に快楽殺人である。食う寝る飲むという人間の生活パターンの中に、いともたやすく殺すを入れているような人間。
しかし厄介なのは、力が強くてもネジが一本飛んでいるから丸め込みやすいというタイプではないということだ。頭がいい上に、紅が指令を吐くよう誘導したにもかかわらず、それをさっさか避けて逆に指令内容を特定されかけたことだった。
あの殺人鬼の性格パターンは、「死んだときのリアクションが面白そう」「人が死ぬのを見せたときのリアクションが面白そう」という理由で殺す人間を選ぶ以上、下手に指令内容を知られ、その条件を達成しようものなら、「助かったという顔が絶望に染まるのが見たい」とかいう理由で殺されかねないので、あれに指令内容を知られるのは困る。
【三人以上の指令書の内容の確認】
紅からしてみれば、口八丁手八丁で情報を抜けば簡単な指令だったはずなのだが、思ったよりも早いペースで死んでいるため、これ以上死なれたら確認できなくなるのである。
****
美羽と立石でふたりがかりで探したものの、とうとう二階の廊下にはなんの手がかりもなしということ以外わからなかった。
「二階、あとは宿泊施設ですけど……全員分開けられますかね……」
「なら……」
立石は一瞬言葉を詰まらせるのに、美羽はキョトンとする。
「立石さん?」
「……既に亡くなっている人の部屋から探そうか」
それに一瞬美羽は言葉を失った。
既にふたり亡くなっている。二部屋から探せるというのは、理にはかなっているが。
(また翔太が死んだ事実と向き合わなきゃいけないんだ……)
それで気分が暗くなる。立石はそれを無表情のまま言う。
「すまない。君が嫌なら、俺ひとりで」
「いえ。大丈夫です。見つかったら全員助かる……そうですよね?」
「……ああ。逃げ切れたら、だが」
「はい……でもそろそろ夕食の時間ですよね。食いっぱぐれたら困ります。行きましょう」
美羽はできる限り明るくそう言った。
(明日から……死んだ人の部屋を漁らないといけない。ううん。まだ二階から探したほうが早いからそうしているだけで、一階は手付かずなんだもん。脱出路を探さないと駄目だし……もし見つけ出したら、指令を達成できてない人だって逃げ出せるかもしれないから……これ以上人が死ななくってもいいもんね)
八人しか閉じ込められていないにも関わらず、死ぬペースがいくらなんでも早過ぎるのだ。このままでは全滅のおそれだってあるし、疑心暗鬼になっているのを阻止できたほうがいい。
美羽はそう己を励ましながら、食堂に降りたのだった。
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