浜松のゲンザイ

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浜松のゲンザイ

 浜松徹は中小企業で十年近く経理として働いている、見た目通りのくたびれた会社員である。  自己紹介の内容には嘘はないし、自己紹介の場に残った面々の印象も概ね正しい。  ただ、全てを言っていないだけである。  浜松の住む家は新築のオートロックのファミリーマンション。本来だったら一生かけてローン返済に臨まなければならないほどの金額だったが、小心者で几帳面が過ぎる浜松は、貯め込んでいた貯金で一括購入したために、周りから英雄のように称えられた。 「すごいですね、浜松さん。念願の持ち家……!」 「ええ……本当に。都合よく会社に近くて買いやすい物件がありましたから」 「それにしてもローン一括払いって、思い切ったことをしましたね?」 「借金が残っているとなったら、落ち着かないんですよ」 「奥さんびっくりしませんでしたか?」 「妻は子が落ち着く環境を求めていましたから」  会社の飲み会でアルコールを入れて行った会話でも、彼の几帳面さや小心者の側面は見て取れたが、世間一般的な言動から逸脱するものでもないために、特に誰も気にすることがなかった。  飲み会で適当に世間話をしてから、浜松は家路を歩いて行った。  マンションの管理役員にでも任命されない限り、マンション内の人間関係は希薄だ。それが値段以上に浜松の購入する決め手となっていた。  家が近付いてくる中、ふと違和感を覚えた。  まだ終電時刻ですらないというのに、カーテンを閉めていても漏れるはずの明かりが、家から漏れてこない。おまけに、匂いが違う。  空気口を出入りするはずの湯気も夕食の匂いも、なにもしない。浜松は違和感を持ったまま、家のドアを開けた。 「ただいま」  返事がなかった。  おかしいと思って浜松は電源を点けるが、妻も子もいなかった。それに浜松は思わず足で机を蹴っ飛ばした。  タンスを確認したが、通帳、カードの類は全て置いてあった上、スマホすらも置いてあった。  妻子は忽然と姿を消したのである。  翌朝、会社に体調不良を理由に休みをもらうと、市役所に確認に行ったが、浜松と一緒に入れていた妻子の戸籍類は全て引き抜かれていた。それについての問い合わせをしたが、「お答えできません」と言われてしまった。  妻子がいなくなった。  警察に相談に向かい、捜索願を出そうとしたが、話を伺っていた警察官たちは、浜松の話を聞いていたがだんだんと顔色を変えてしまった。 「こちらは受理できません」  固い口調でそう言われて拒絶されてしまったのだ。押し問答をしても「駄目です」「受理できません」の一点張りだった。  役所、警察にすら、妻子の行方を遮断されてしまった。自分の妻子は今、どこにいるんだ。  浜松は興信所に出かけ、妻子の捜索依頼を出した。興信所のエージェントは親身になって話を聞いてくれ、調査をしてくれたが、数日経ってから連絡があった。 「こちらは探偵業法に違反するおそれがあるため、これ以上の捜査はできません」  なんでだ。  浜松はこう何度も何度も跳ねられて、必死に次の興信所を調べた。どんな依頼も受けてくれるところ。どんな依頼も跳ねのけないところ。そこで事情を一部始終を説明した。  前の興信所は綺麗で清潔な場所だったが、次に訪ねた場所は、路地裏の雑居ビルに入っている、正規の興信所かどうかも怪しい場所だった。  その話を一部始終を聞いていたエージェントは「ああ……」と言った。 「おそらく奥さんとお子さん、避難処置しましたね?」 「避難処置……ですか?」 「各地にどう説明したかはこちらも知りませんよ。ただ虐待やDVだと訴えれば、適用されます。その際に公共機関での個人情報の取得は一切遮断されます」 「自分の妻子ですが!?」 「そう言われましてもね。ですから、少々非合法の方法になりますが、いかがしますか?」 「お願いします!」  ふたつ返事であった。  浜松は小心者であり、几帳面であり、なによりも外面というものを一番気にする男である。 (妻子が家にいなかったら、変じゃないか)  ただ食費をもう少し欲しいと命令してきた妻を、「今時の主婦はもっと食費を浮かせることができる。舌が贅沢過ぎるんだ」と注意したり、子供が足が遅いのを「そんな足で小学校に行けるのか」と励ましたりしただけだ。  暴力だってふるっていない。生活費だって渡している。それでどうしてDV扱いされないといけないのか。  その興信所のエージェントに手数料を支払って、連絡を待った。  几帳面で小心者で外面を気にする浜松の家は、だんだんと物がなくなっていった。  妻が取っていた新聞の切り抜きも、雑誌の一コーナーを集めたファイルも、クリーニングに出さないと綺麗にできない服も、全部捨てた。子の物に至っては、進学に必要なさそうなおもちゃもゲームも根こそぎ捨てた。 「ごめんなさい。許してください」  そう言ってきたら許してやろう。  浜松は本気でそう思っていた中、エージェントから「避難先を特定できた」と連絡があった。  会社には早退届を出して、急いで教えられた場所に向かった。素っ気ない建物であり、言われなかったら避難している人が住んでいるとわからない建物だった。  そこへ向かおうとした際。突然スーツの男たちに捕まったのだ。中小企業で務める浜松では、まず見ないような深い色合いのスーツを着て、合成繊維ではなく絹のネクタイを付けていた。 「一緒に来てもらいましょう」 「離せ、今、妻と子に会いに……!」 「お前も妻子に会う邪魔をするのか……!?」  浜松はそのとき、外面ばかり気にして、妻子以外に向けたことのない激高を浴びせていた。  自分は被害者だ。公共機関に妻子と会うことを阻まれているのだから。  妻子は理由もわからず避難してしまったのだから。  そして訳のわからない男たちに、妻子に会うのを阻害されている。  我慢ならなくなった浜松は、気に食わない上司にすら向けたことのない拳を男に向けた。鈍い音。握った手が痛い上に、手首が痺れる。  男は歯が折れたらしく、血と歯を落としたが、他にも男たちが現れた。 「離せ! 俺は! 俺はぁぁぁぁぁぁ……!?」  羽交い絞めにされて車に押し込められて、目隠しをされると、訳のわからない場所に連れて行かれてしまったのである。 ****  ヒョロリと伸びた背。肉が削ぎ落ちた頬。目だけはぎょろりと向いている上に手足が異様に長く、見下ろす様は獲物を捕食しようとする蜘蛛を思わせた。  名前も知らないが、言動が気まぐれで捉えどころがなく、ただ肌で「この男に逆らってはいけない」とわからせるような雰囲気を纏っていた。 (なんなんだ、この男は……!)  浜松は悲鳴すら上げられなかった。  館から恋人と一緒に逃走しようとして、真っ先に感電死した少年から、指令書を盗み取って破いた。  他の人間から奪ったらなにをされるかわからない上、死んだ人間から奪えば誰からもとやかく言われない。そう判断したから奪ったというのに、それをまさか指摘されるとは思ってもおらず、ただガタガタと震えた。  しかもこの男を、立石は放置しているのだ。 (なんなんだ、自己紹介をしようとか言い出した癖に、この危ない男を放っておくというのか……!!)  自己保身に走る浜松は、いいこともしてない代わりに悪いことも一切していない立石に八つ当たりし、目の前の男に対して責め立てる言葉が出てこないという事実に気付かない。  大男はのんびりと言った。 「ん-……血のにおいはすっけどぉ、斬ったり刺したりしたよりは量が少なめ……ああ、わかった。誰か殴ったんだぁ。殴り慣れてんだね?」 「な、にを……」 「わかるよぉ。『どうして?』って思わせるためには、ずっと緊張させちゃ駄目なんだよねぇ。飴と鞭で油断させて、そんなもんってわからせなかったら、ずっと緊張しているか、ずっと頭を塞いでるかのどっちかになっちゃうもんねぇ。病院に行かれてばれたら厄介だしぃ」 「おい、なにを言ってんだ。あんたは」  ようやく立石が口を挟んできた。それに大男は「アハッ」と笑う。 「こいつさぁ、自分より弱いのいたぶるの好きだよぉ。外面いい奴で、たまぁにいんだよねえ。そういう奴さぁ。他人にはよっぽど腹据えかねたとき以外は手を挙げないけど、暴力に慣れてる奴」 「それって……」  無表情の立石の顔色が明らかに変わった。  メガネ越しに向けてくるのは、批難する目だ。 「な、なんにもしてない……! 自分は、ただ……!」 「ストレス社会だと、どっかで暴力振るいたくなるよねえ。わかるよぉ」  そう言いながら、大男はとうとう浜松に手を出した。いきなり頭を掴んできた上に、ブランと持ち上げられる。 「おい!」  立石が悲鳴を上げるが、大男はのんびりとした口調を止めない。 「いくらオレ、やり慣れてるからってさぁ、片手で首の骨グギャッてなんてできねえしぃ。オレのことなんだと思ってる訳?」 「というより、なにやってるんだ、朝っぱらから」 「ん-? みゅみゅは今いねえし、人数絞らないと駄目だからどうすっかあと考えたところで、一番つまらんおっさんからやればいっかあと思っただけだけど?」 「だから……」  立石が大男の説得を試みているが、なにを言っても受け流され、頭を掴まれたまま、食堂を出て行く。  頭が割れそうに痛い。首がミチミチと言って、取れるんじゃないかと思う。おまけに中肉中背の身長では大男に頭を持たれてしまったら浮いてしまって、自分の体重で首の骨が折れるんじゃと思ったら、怖くてもがくことすらできなかった。  やがて食堂前の廊下を歩き、エントランスに到達したところで、階段が見えてきた。  つまり。 「な……なにして」 「投げよっかなあと。真っ先に殺そうと思ってた奴、自爆しちゃって死ぬの見られなかったんだよねえ。みゅみゅが虚無の目を向けるの、見られなくって残念」 「や、やめ……」 「……ホント、つっまんねえな、おっさん。当たり障りのない言葉しか言えねえのかよ」  今までのヘラヘラした声から一転、一気に冷えた声になり、浜松はぞっとする。  強張っている中、大男は乱雑に浜松を投げる。扉が、近付いてくる。 「感電してさあ、面白おかしく痙攣してるとこ見せてよ。そしたら、ちょっとは面白くなんだろ?」  心底つまらないという声を、吐き出したのだった。
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