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『少しでもいいから、颯太に会いたい』
震える指で、スマホの画面の紙飛行マークをタップした。
自分から「会いたい」と誰かに伝えるのは初めてのことで、緊張で動悸がする。
一度帰宅して、気合を入れるためにメイクを直して、会社帰りの姿に見えなくもないけれどオシャレにも気を遣っているふうの服に着替えて、颯太の家に向かう。
途中ドラッグストアに寄って、栄養ドリンクとビールを買った。
自分の気持ちを見つめなおすために、どうしても真っ正面から颯太の顔を見たい。
友達としての顔はすぐに思い出せるのに、私を好きだと言ってくれている颯太からは、目を逸らしてしまっていた。
ひとりの男の人としての彼と、ちゃんと向き合いたい。
声が聴きたい。
あの優しい低い声で下の名前を呼んでもらえたら、なにか分かる気がする。
今日は玄関先で少し話したら、すぐにおいとましよう。そして、次に会うときは、考え抜いて見つけだした自分の気持ちを、言葉にして伝えられるようになりたい。
一度深呼吸してからインターホンを押す。やはり、帰ってきていないようだ。
メッセージ画面を開いてみる。返信は来ていないけれど、既読は付いていた。
三十分だけ待ってみよう。
玄関扉に背中を預けてスマホをいじっていると、背後からガチャリと扉の鍵が回る音がして、慌てて離れた。お風呂にでも入っていてすぐに出て来られなかったのだろうか。まさか颯太が帰ってきていると思ってなくて、心の準備ができていない。
ゆっくりと開いたドアにはチェーンがかけられていて、十センチほどの隙間から見えたのは、知らない女性の顔だった。
ぱっちりとした二重に大きな黒目、艶々の唇はもぎたてのサクランボのような紅がひかれている。張りのあるシミひとつない肌は若さだけのものではなく、きっと手がかけられているのだろう。僅かな隙間からでもわかる。かなりの美人だ。
「あなた、颯太の彼女?」
子猫のような高く可愛らしい声。
混乱してなにも返事ができずにいると、重ねて同じことを問われた。
「颯太の、今の彼女さんですか?」
「えっと、そう…です、…一応」
下の名前を呼び捨てにしている。
——部屋の中にいるということは合鍵を持っている?元カノが鍵を返しに来たところに偶然出くわしてしまった?
どちらにしても、ふたりが相当親しいことに違いはない。
「一応?」
「え……っと」
ここは正々堂々と「あたしが彼女です!」と宣言した方がよかったのかもしれない。
けれど、颯太本人に自分の気持ちをなにひとつ伝えられていない私なんかが、恋人だと胸を張って言うことはできなかった。
「あの、まだそこまで好きじゃないなら、颯太はやめておいた方がいいですよ」
「え…?」
「颯太は優しいけど、誰のことも本気で好きにはならないから、きっとそのうちつらくなりますよ」
「どういう…ことですか…?」
「もう颯太に泣かされる人は見たくないので」
じゃあ失礼します、と彼女が丁寧に頭を下げて、扉が閉ざされた。
混乱して、聞きたいことを聞くことができなかった。
ぐちゃぐちゃの心のまま、帰路を辿る。
誰も本気で好きにならないって、どういうことだろう。それが本当なら、私のことも本気で好きなわけではないということだろうか。
誰かを泣かせたり、女の子をもてあそんだりするような人じゃない。
そう信じている反面、私が颯太の何を知っているのだろうと、急速に自信がなくなってくる。
友達として長く付き合って来て、彼が心根の優しい人だということはわかっている。
意図して人を傷付けたりしない。
けれど、恋愛関係の話を本人から聞いたことはほとんどなかった。
告白してくれた時だって、いつから私のことを好きだったのかと聞いても、濁されたりはぐらかされてきた。
失恋して、女としてうまく機能していない私に同情して、それを恋に置き換えていただけだったのではないか。
——本当の意味では、愛されていなかったのかもしれない……
これは、颯太を疑う気持ちというより、自分を信じてあげられない弱さだ。
どこをどう歩いてきたのか覚えていないが、帰巣本能なのか、無事に家の前に辿り着いた。
「おかえり」
ふと鼓膜を震わせた耳心地のいい声に顔を上げると、私の頭の中を独占しているその人が、うちの玄関扉にもたれかかっていた。
目が合うと優しく目尻を下げて、私の方に歩み寄ってくる。
「あずさから初めてラブレター貰ったから、嬉しくて思わず会いに来た。…ごめん、今週ずっと忙しくて……あずさ?」
思わず駆け寄って、颯太の背中に腕を回し、胸に顔をうずめた。
抱きしめるだけでは足りなくて、思い切り鼻から息を吸い込む。いつのまにか、この匂いで心からの安らぎを覚えるようになっていたのに。
ぐぅ、と喉奥が音を立てて締まり、塩っ辛いものが込み上げてくる。
「どうした?」
左右に首を振り、ぐりぐりとおでこを擦り付ける。彼のスーツが汚れるかもしれないとか、考える余裕なんてなかった。
颯太が私の事をいつから好きだったのか答えてくれなかったのは、答えられなかったからなのかもしれない。慰めの「好き」だったのかもしれない。私は、一番になれないままなのかもしれない。
——それでもいい……仮初の愛情でも、それでもそばにいてほしい
例え愛されていないとしても、私は…
「……好き…」
「え……?」
「あたし…颯太のこと、大好きなの…」
言葉と一緒に涙がこぼれ落ちる。声も肩も、微かに揺れてしまう。
好きな人に好きだと伝えることが、こんなにも心が震えてしまうことだったなんて。
颯太が、誰を好きでも構わない。
私は颯太が好き。
愛されているという幸福感の中でも、私はどこか不安だった。穴があいた風船みたいに、安心が抜けていく。
私に必要なのは、愛されている実感よりも、愛しているという強い想いだ。
この想いが一方通行だとしても、私は颯太の手を離したくない。
——元カノさんが、颯太の家にいたよ
——颯太は、誰のことも本気で好きにならないって聞いたよ
それを伝えてしまったら、颯太がそっちに行ってしまうかもしれない。私は、それを伝えなかった。
行かせたくない。
今この手を離したら、あの子と颯太が会うことになる。
颯太は優しいから、きっと彼女を追い返したりしない。
「どこにも…行かないで…」
恋愛ドラマを見ていて思っていた。男の人に執着するなんて惨めになるだけだし、逆に相手の心は離れる一方なのにと。
「今日は、ずっと一緒にいたいの」
惨めでも、それでも縋り付いてしまう。それが愛だとしたら、思っていたよりも全然綺麗なものなんかじゃなかった。
丸いハート形で、ピンク色に艶めいているのが恋だとする。それが熟れて、血の色ように赤黒くなってドロドロに崩れた、もう原型がハート形なんて信じられない形、それが私の愛なのかもしれない。
だって、今の私は、なんてみっともない。
颯太のワイシャツに涙を吸わせて、絶対に放すまいとしがみついている。
「あずさ…?」
顔を見られないようにくるりと体を離して、颯太の腕を引く。
玄関の鍵を開けて、部屋の電気も点けずに強引に寝室に颯太を連れ込んだ。
「お願い。抱いて……」
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