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「あずさ、なにかあった?」
休み明けに出社すると、顔を合わせるや否や、千鶴から見抜かれてしまった。
「ちょっといろいろ……。ごめん、気持ちに整理がついたら全部話すから…」
心配そうに私を覗き込んでくる。
「あずさが話したくなった時に、話したいことだけ話してくれればいいよ。わたしでよければいつでも聞くから」
「…うん、ありがとう」
千鶴の恋愛の話を聞いたときは、もっともらしいことを言ってアドバイスしていたけれど、いざ自分のターンになってみると、なにをどう相談すればいいのかすらわからない。
やらなければならないことはわかっている。
あの子との関係は切れているのか確かめること。私が言われたことの報告と事実確認。今の私の気持ちを伝えて、これからの私たちの関係についての話し合うこと。
わかっているけれど、できない。したくない。
あれから、颯太から何度か電話があった。でも、怖くて出られなかった。
次の約束をしてしまったら、はっきりと終わりが見えてしまうような気がする。
メッセージも何通か来ていた。まだ仕事がだいぶ忙しいらしい。
少し前までは仕事終わりに颯太の家に行き、一緒に過ごすことが習慣になっていた。
それまではどうやって過ごしていたっけ?なにを楽しみに生きていたんだっけ?
思い出せなくて、それがまた私を苦しくする。
まっすぐ家に帰るのもつまらない。とはいえ、合コンや飲み会で出会いを探そうとは、もう思えない。颯太と別れても、きっと私は、ずっと引きずってしまう。
今日は何をして過ごそうかと考えているところで、スマホの通知音が鳴った。
『今夜、ごはんに行かない?』
姉からだった。
社会人になり、一人暮らしを始めたばかりの頃はよくこうやって誘われたけれど、少しずつ断る回数が増えて、誘われる回数が減っていった。
『いいよ』
そう返信すると、今日の予定が埋まったことで安心感を覚えた。
*
「久しぶり。なんか元気ないみたいだけど大丈夫?」
「大丈夫。ふつうに元気だから」
姉が選んだだけあって、オシャレで綺麗なレストランでの食事だった。私はチェーン店の居酒屋の方が楽で好きだけど、姉にそういう雰囲気は似合わない。
「あずさ、綺麗になったね。恋でもしてる?」
ぐっ、と水を吹きそうになったのをなんとか堪えた。
「そうやって見透かしてるみたいに言うのやめてよ。それに、お姉ちゃんから綺麗になったとか言われても嬉しくないし」
誰から見ても紛うことなき美人から「綺麗になった」と言われても、素直に喜べない。自分より成績の良い人から「頑張ったね」と褒められても、見下されている気持ちになるのとよく似ている。
「あずさは可愛いし、いい子だよ。私、本当にそう思ってるのよ」
「急にどうしたの?」
あまりにも断ることが増えたから、姉が私を食事に誘うのは、なにか話したいことがあるときに限られるようになっていた。
「私ね、実家を出ようと思っているの」
僅かに眉尻を下げて、柔らかくほほ笑む姉。なにかを諦めた時のような笑顔にも見える、少し寂しげな表情だった。
「お父さんとお母さんには伝えたの?」
「明日にでも言うつもり。先にあずさに話しておきたかったの」
「お父さんもお母さんも、お姉ちゃんのこと大好きだから、きっと寂しがるね」
「そんなことないわよ。私より、あずさの方が愛されてるんじゃない?」
「ありえないよ。ずっとお姉ちゃんのことばっかりで、あたしが褒められたことなんて一度もないもん」
「私の前では、あずさのこと沢山褒めてるわよ」
「え?そんなわけないよ」
姉が控えめな溜息をついて、やっぱりね、とひとりで納得し始めた。
「あの人たちに悪気はないってわかってるんだけど、私も疲れちゃった」
まさか姉が両親のことを「あの人たち」と言うとは俄には信じられなくて、目の前にいるのが私の知っている完璧な姉ではなく、年頃の悩みを持つ普通の女性に見えた。
姉は大学卒業後、誰もが知る大手の製薬会社に正規職員として就職した。
仕事の飲み込みが早く、愛嬌もある姉は上司や男性社員から気に入られた。そうなると、当然のように同期や女性社員からは嫉妬の対象にされる。
大人の虐めは陰湿でタチが悪い。
報告、連絡、仕事の指導等をまともに受けられなくなり、姉だけが疎外されていく。
証拠が残らないような嫌がらせも日常茶飯事だったようだ。
そのまま働き続けても、改善することはないと悟った姉は、退職せざるを得なかった。
離職するのと同時に実家に戻り、バイトや派遣社員としていろいろな職場を経験してスキルアップしつつ、人間関係が穏やかな職場に就けるよう探っているところだそうだ。
「あずさは最初の就職先で頑張ってるし、実家に頼らずに自立してて凄いって。昔から真面目で勤勉で、愛想笑いできない分信用できるって」
「真面目でつまらない。愛想も悪いからお姉ちゃんを見習ったら、ってしか言われなかったけど…」
直接褒められた記憶がないので、そんなふうに私を褒めていたなんて急には信じられない。
「私もよく言われるよ。『あずさみたいに——』『あずさだったら——』って。本当、比べないでほしいよね」
「お姉ちゃんもあたしと比べられてるの…?あたしがお姉ちゃんより優れてるところなんて、ひとつもないのに?」
怒っているような、呆れているような、それでいて慈しむような表情で、ばかね、と優しく叱られた。
「私より優れてるところが無いなんて、そんなことあるわけないでしょう?この世にあずさはたった一人しかいないんだから。あなたしか持ってないものが沢山あるのよ」
「……そうなのかな」
「当たり前でしょ?絶対にあずさじゃなきゃ駄目だって人が、間違いなく現れる。……っていうか、もしかしてもう現れてる?」
おどけた様子で首を傾げる姉は、どう足掻いても私よりも可愛くて美人で。でもやっぱり私は、私で良かったと思いたい。私を好きになりたい。愛してあげたい。
だからこそ息苦しくて、ずっと藻掻いていた。
「あの人たちはね、姉妹を比較することで、切磋琢磨しながらお互いが成長し合えるだろうっていう子育て方針みたいなの」
馬鹿みたいだよね、と、さっき私に言った「ばか」とは全然違った声色でつぶやいた。
「親の発言が、どれほど子どもにとって呪いの言葉として根付いちゃうのか、なんにもわかってないんだから」
祝福の言葉を受けた子どもは、自分が愛されているのだと自覚できる。呪いの言葉を受けた子どもは、自己肯定感が低くなる。
義務教育の教科書に載せてもらいたいくらいの基本情報だわ、と姉がぼやく。
確かに、私は子どもの頃に父から「お姉ちゃんより鼻が低いな」と笑われて以来、鼻にコンプレックスがあった。そういう些細なマイナスの芽を次々と植えられて、いつしか自分に自信が持てなくなっていた。
「あたし、お姉ちゃんの妹でいることがつらかった。本当は大好きなのに、自慢の姉だって思ってたのに…」
「わかってる。あの人たちの考え方を今更変えるなんて無理だから、私たちが変わっていくしかないのよ」
「お父さんとお母さんのこと嫌いなわけじゃないし、感謝もしてるの」
「それもわかってるよ。悪気がないのが余計悪いとは思うけど、いいところだって沢山あるからね」
両親のことを、姉は完全に割り切っているようで、とても清々しい表情をしている。私も、そうなりたい。
「あたし、変われるかな」
「大丈夫、あずさは本当に素敵な子だもん!この私が言うんだから間違いないよ」
とびっきりのドヤ顔の姉に、思わず笑ってしまった。
「そうだね、お姉ちゃんが言うなら間違いないね。…ありがとう」
そうだった。私は、自信満々でいつも私を引っ張り上げてくれるお姉ちゃんのことが、単純に大好きだったのだ。
「私が一人暮らしを始めたら、遊びに来てね」
「もちろんだよ」
ただ純粋に仲良し姉妹だったあの頃に戻るところから始めようと思った。
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