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Ⅰ
青空に薄く月が浮かんでいる。
真昼の月だ。今夜は満月だそうだから、霧雨に潤んだ昼の月は鏡のように、銀白色に光っている。時折ちらちらと日光を受けて光る様はとても神秘的だ。
今、世界は雨で煙っている。
息よりも細く、飴細工よりも繊細な霧雨だ。それが大気いっぱいに満ちて、しかし日光も負けじと照らすから、きらきらと音が聞こえてくるようなダイヤモンド・ダスト。草木も、さえずる鳥の羽も、私の肌も、気持ちの良い潤みに包まれている。
水彩画と形容するには、水彩画の方がさっぱりとしているから油絵だろうか? ううん、油絵ではやっぱり重厚すぎる。そもそも霧雨を描き表すのは難しいだろう。私は絵は描けないけれど……
なんて、窓枠で切り取った絵画に解説を施すことにもとうとう飽いてきたころに、馬車が止まった。
どうやら目的地に着いたようだ。扉を開けた騎手の、差し出された手を取り、馬車を降りる。その手は少々震えていた。この人もどれだけの数の女の子を送ってきたのだろう、彼の辛労に胸が痛む。
(ごめんね、この役目も私で終わらせるからね)
―ーなんて、心の中で呟いた。
我が国の隠していた悪習、”花嫁の儀”――どこかの地に存在する妖魔たちの隠れ里、”不見の渓谷”。その統治者たるドラゴンへの贄の慣習は、おおよそ想像もつかないほどに昔から続いているという。毎年1人、孤児の女の子が死装束の白を纏い、身を捧げにこの土地に赴く。それにこの度私がやってきた。
出立から3日と数刻、馬車が止まったのは森の手前だった。垣間見える薄闇の中で何やらの光が見え隠れしている。まだ太陽は中天より少し傾いたくらいだというのに薄暗いのは、ここが妖魔のはびこる森だからだろうか。
二人歩いてゆくと、森の入り口、というより生物が出入りし踏み固められたというような獣道の前に妖魔がいた。
上を向いた角、蹄のある獣の下半身、人の顔――ホブゴブリンだ。近づくと、彼が騎手に小さな布袋を手渡す。宝石かお金が入っているのだろう。とたんに切なくなった。とうとう戻れない。もとよりそのつもりで来たものの。
「お達者で」
ホブゴブリンに手を引かれ森の中を進んでいく。彼の歩みは鈍く、ゆっくり周りを見渡せた。
木々の間からは何らかの目が覗き、視線が私の全身を舐め上げる。色とりどりのキノコの間には黒小人が姿をのぞかせる。角のあるモノ、毛だらけのモノ、複数の牙をもつモノ、透き通ったモノ、小さいモノ、長いモノ……光っていたのは蛇目蝶の羽だった。やがて妖魔たちの森を抜けた。
つい感嘆の声が漏れ出た。
緑と水を湛えた荘厳な渓谷が目の前に広がっていた。色とりどりの緑、透明を流してゆく河、そこかしこに感じる大小様々な気配に、大気には美しい鳴き声が溶けては消える。小石を踏みしめ、しっとりと濡れそぼった草をスカートで揺らしながら河岸に降りて行く。
日光を弾く広大な河、その岸元に、古びているが立派な屋敷。
その扉の前に彼はいた。
この方か、と一目で得心する。私の得意は心身魔法。どんなに上手く取り繕うとも、相手のレベルは手に取るように分かる。接しやすい人間の姿だろうと本質は完全には隠せない。
ホブゴブリンは過たず、この渓谷の統治者である彼――ドラゴンの元へ近づいてゆく。
褐色の肌に瑠璃色の目をしている美しい男性だった。肩元までの黒髪は一つに結わえ流しており、尖った耳元に光る蒼い鱗がイヤーカフのようだ。シンプルなシャツに黒いパンツ、腰にはストールを巻きつけている。その佇まいは巨きな身体に見合い凛然と、そのわりに柔らかさをも兼ねそろえているのは人懐っこい笑みからだろうか。ご苦労様、とホブゴブリンに声がかけられると、彼は私の手を離し、男性から木の実を受け取る。私に向き直り人懐っこく手などを振って去っていくのでつい手を振り返す。
「初めまして、お嬢さん」
「初めまして、主様」
彼が扉のドアノブに手をかける前に扉が開く。彼越しに見やると、開け放たれた扉の向こうに二頭のヤギの悪魔が立っていた。彼がこちらに向き直る。
「左の黒いのがムロウ、右の白いのがメイだ。身の周りのあれこれをしてくれている。メイ、今日から彼女の身の周りの世話を頼む」
メイと呼ばれた悪魔は一礼し、ムロウと呼ばれた悪魔は先頭をきって歩き出した。その後に続く。
「きみ、名はある?」
廊下を歩きながら振り返りざま、私に問いかけてくる。もうすぐ自分が食べてしまうというのに、肉ではなく私を人として接するというのか。中々律儀なドラゴンである。
「申し遅れました。私はリズと申します」
「リズ。そうか。良い名だ」
「……あなた様の名は? 何とお呼びすればよいでしょう」
「特に、何でもいいよ。名前、ないから」
名前がない。私は妙な衝撃を覚えた。
名前とはこの世で一番短い自己紹介である。それがこの竜にはない。それはなんだかひどく寂しいものに思えた。
「だからいっそ、きみが決めてくれて構わないぜ!」
そうおちゃらけた風に笑うが、そこに含まれた微量の空虚さを私は見逃さない。私の得意は心身、特に見えないものを見ることなのだ。
「そうですね。不便ですし、考えておきましょう」
ドラゴン男性が満足げに微笑む。
「ところでリズ、そのヴェールを外してくれないか。何だか味気ないから顔を合わせて挨拶しよう」
……反射で躊躇ってしまった。沈黙が変な間を作る。
だって私は、
「お言葉ですが、私は不器量でございますれば、これからお食べになられる身としましては中々不快に思われるかと。直前まで蓋をしている方がましというものです」
……言葉は一番簡単で残酷な呪いだ。
自分では言いたくなかったこと。
曇る気持ちのままヴェールの中で伏せた目をちらりと上げると、なんとドラゴン男性もその美しい顔を曇らせているではないか。その陰りがどちらの意味なのか測りかねていると、ドラゴン男性が肩に、掴むように手を置いた。大きな温かい手だ。
「自分で自分のことを悪く言うの、やめてくれ。……食べないよ」
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