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鼠径部日記
慶応年間に作られたと言われる黒門を入ると、石畳の敷かれた長いお庭が校舎まで続いている。よく整備された植え込みには今は紫陽花が咲いていて、今日は鮮やかにお天気雨を弾いているのだった。
私は、小雨になった空を見上げ、傘をたたんだ。
ここは名門女子高校、貞淑女学院。
そして私は、この学校の一年生。山田陽子。
今日は土曜日。授業は勿論ないけれど、部活がある。でも、多分、今日が最後の部活。私が制服の肩にかけているカバンには、退部届が忍ばせてあるのだった。
校舎が近づいてきた。校舎の入り口は、かつては華族のお屋敷だったというその風情が残してあり、古い立派な柱が歴史を感じさせる。
と、その柱の陰から人影が現れた。
私は立ち止まると肩にかけていたカバンを下ろし、お腹の前にそろえた両手で持って、直角のお辞儀をした。
「水前寺部長、おはようございます。ご機嫌うるわしゅう」
水前寺麗華先輩は、私の所属する部の部長。
容姿端麗、頭脳明晰、おまけに温厚篤実。
完全無欠の我が部のエース。
どこをとっても中の中の私にはとても届かない。雲の上の存在。
「おはよう、山田さん。雨に濡れますわ。早く屋根の下へ」
「はい。ありがとうございます」
そう言って会釈をしながら通り過ぎようとした私を、水前寺先輩は呼び止めたのだった。
「お待ちになって。山田さん」
「はい?」
「部を辞めたいんですって」
「あ」
私が部を辞めたいと漏らしたのは、同学年の数人にだけ。そこから伝わったか。私は足を止めた。
「理由を聞かせていただける?」
「はい。あの」
「わたくしたちに問題があるなら、それは改善していかないと」
「そういうことではないんです。あの」
私は言いよどんだ。水前寺先輩は、そんな私をあたたかな目で見ていてくれる。そのやさしさがつらいのに。
「夏休みに入ったら、新人戦です。山田さんは、新入生の期待の星」
「そんな。勿体ないお言葉です」
「謙遜しないでよくってよ。私たちはあなたの実力をちゃんとわかってる。新人戦が終わったら、鼠径部の地区大会が始まります。ビッグアンサンブルクラス、スモールコンボ、両方に出ていただこうと考えています。そこでは山田さんにフロントフラッグを担当してもらうつもり」
え?
私は息が止まりそうになった。
貞淑女学院は、体育会系文化部と呼ばれる鼠径部の強豪校だった。全国に1500ある高等学校鼠径部の全国大会出場常連校。
そのフロントフラッグを私が。
「おはよう。ご機嫌うるわしゅう」
「あ。前醍醐先輩、おはようございます。ご機嫌うるわしゅう」
驚きで時間が停まったようになっていた私の横を、2年生の前醍醐尊子先輩が微笑みながら通り過ぎて行った。私はあわててお辞儀をした。
「辞めないわね、山田さん」
「は、はい。水前寺先輩。あの」
「辞めたいと思っていた理由を聞かせていただけるかしら」
「はい」
水前寺先輩の前では正直に答えるしかなさそうだった。
「あの。私の血統値が」
「血統値?」
「はい。皆さん高血統なのに、私だけこんな低血統で、それで」
「ははははは」
水前寺先輩は、それは愉快そうに笑った。私はこんな風に笑う水前寺先輩を見たことがなかった。
「高血統ですって?はははは」
「どうされたんですか?」
「山田さんのお父様は何をされてるの?」
「うちは普通の薬の営業マンです」
「普通じゃないの」
「ですから」
水前寺先輩はようやく笑い止むと、真顔に戻って話し始めた。
「前醍醐さんのお家は、水道屋さんですって」
「え?」
「副部長の友禅院さんのお家は、ラーメン屋さん」
「あ?」
「私は」
「はい。水前寺部長のお父様は」
「私のお父さんは、トラックに乗ってプロパンガスを取り換えてるわ」
私は自分が愚かだと思った。私は水前寺部長の前で深く頭を下げた。
「すみませんでした」
「みんな普通の家庭の子。名前がそれっぽいだけでね。どこのお家も頑張って娘をこの学校に入学させてくれた。そして、ここで、鼠径部でみんなが出会った。とりわけうちの部員がお嬢様っぽくしてるのは、この部の伝統だから」
「そうだったんですか」
「さて。着替える前に、一発、声出しとく?」
「はい!」
私たちはカバンを置くと、相対して立った。
そして、足を少し広げ、腰を落とすと、両方の手の平を手刀の形にした。
「参りますわよ」
「はい」
「ひいふうみい!」
そして、私たちは、その手刀を自らの鼠径部に沿って上下させたのだった。
かつて「白い妖精」と呼ばれたルーマニアの体操選手の名前を叫びながら。
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