10.ぽつん

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10.ぽつん

 何だか荒涼とした街の中に放り出されたような心地のまま、俺は和貴と別れて新宿の街を流していた。  ガキの頃から庭のように駆け回っていた街だというのに、何だか急に、他人行儀に感じられる。いや、他人なのだが、俺と姉貴という、親に放り出された姉弟を包んでいてくれたあの暖かさが、今日は感じられない。いや、感じられていたガキの時代は、もう終わっていたのだ。  姉貴を亡くして、政さんとギクシャクして、和貴に先を越されて……何やってんだ、俺。  三丁目を過ぎ、五丁目の自分の店には向かわずに、そのまま仲通りへと向かった。まだ夕方だから、本格的な目覚めには至っていないはずだ。  あの、『深海魚』の昭和臭漂う白く丸いドアの取っ手を押して、俺は引き寄せられるままにカウンターのスツールに座った。 「あら、京太郎じゃない」  ここにいる筈のママに代わって俺に声をかけてきたのは、マリネママであった。彼女のテーブルには、特大ボリュームのカルボナーラ・スパゲッティが鎮座していた。 「園子ママなら、ちょっと買い物に行ったわよ。あたし留守番」  これこそ、ザ・深海魚であり、仲通りだ。マリネママは、二丁目でもかなり高級な部類に入る本格クラブのママで、園子ママとも付き合いが長い。年齢不詳のスレンダーな美魔女だが、食欲には隠しきれない男らしさが漂う。 「そっか……すぐ戻るよね」 「玉ねぎ買いに行っただけだもん。どしたの、元気ないわね」  ものすごい勢いでパスタを頬張りながら、ママはそう言った。 「元気、なくないよ。ちょっと疲れたのかな……」 「若いくせに何言ってんのよ。それともイイ男でもできた? 」 「男って……ママの感覚で言わないでよ」 「何よ、それ」 「ママにはさ、彼氏、いるの? 」  すると、ママは派手にむせて危うくパスタを吹き出しそうになった。慌てて俺が水の入ったグラスをママに持たせると、ママは一気にそれを煽った。 「いやねぇ、この子はもう! なに、男に興味出てきた? 」 「はぐらかさないでよ」  ゴクリと口の中のものを飲み込んだママが、少し間を置いて、頷いた。 「遊びかもしれないけどね。だって若い男だから。すんごいイケメンだもん」 「若い男だと遊びかもって、どうしてそう思うの? 本気かもしれないじゃん」 「金目当てだもん。小遣いが無くならないと、私を抱きに来ないのよ」  絶句して、俺はママを見つめた。達観したようなさっぱりとした表情の奥に、やりきれない虚しさが隠れている。 「本当に好き合える男となんて、滅多に出会えるもんじゃないわ」 「そう……俺、まだそこまで行ってないから、分かんないな」  すると、ママが見る見るアイラインで黒々と囲った目を見開いた。付け睫毛が驚くほどに上向く。 「あんた……童貞? 」  やっぱりそれ言っちゃう……と、面倒臭くなって頷くとさらに畳み掛け、 「で、処女」 「処女って……ああ、まぁ、勿論……」  要は、男とも女とも付き合ったことがない。抱かれたことも抱いたこともない、そんなような意味だ。 「なーに根掘り葉掘り突っ込んでんのよ、竿(さお)ナシのくせに」   俺が俎板(まないた)の鯉のごとく三枚下ろしになっているところへ、園子ママが帰ってきた。 「あたしの京太郎は、心も体も清いのよアンタ」  例の酒焼けした渋い声で、ママはマリネママをギロリと一睨みした。 「でもさ、こんな新宿の申し子みたいな子がさ、よく言うと思わない? 本当は物心ついたくらいから男とズボズボ、千切っては投げ……」 「マリネ」  引き攣る俺を横目に、園子ママが渋い声で一喝した。 「店の準備、遅れるわよ。早く食べちゃいなさいよアンタ」  花柄のエコバックから玉ねぎとりんごジュースのペットボトルを取り出してカウンターに置くと、園子ママは早速スツールに座ってタバコに火をつけた。 「園子ママ、タバコ、やめた方がいいんじゃない? 」  本当に体を心配して俺が言うと、ふうーっと俺がいる方とは反対側のスツールに向かって、ママは派手に煙を吐いた。 「やめらんないのよ、こればっかりは。マリネの男道楽と一緒」 「ちょっと何言ってんのよママ」 「マリネはね、若い男とゲームみたいに遊んで楽しんでるの。本命はね、ちゃんと心の中に一人だけ……ね、マリネ」 「もう、敵わないなぁ、園子ママには」  という頃には、マリネママはあのボリュームのパスタを爆食し終えていた。 「京太郎、変なこと言って、ごめんね」  千円札を二枚テーブルに置くと、ママは立ち上がって俺の肩を叩いた。 「気にする仲じゃないよ。お店頑張ってね」 「あんたってガチでいい子ねぇ……じゃママ、ご馳走様」 「はあい、おきばりやっしゃ! 」  ママが一服している間に、俺はマリネママが済ませた食器を勝手知ったるカウンターの流しに浸し、園子ママにグラスに入れた水を差し出した。 「アンタ、いいお嫁さんになるわ」 「そこ、お婿にしといてよ」  園子ママといると、自分が背伸びをしたり大きく見せようと虚勢を張ったりせずにいられる。  ホッとするのだ……。
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