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11.煙
CDの録り直しを終え、学校に行き、レッスンでボコボコにされ、嘱託の伴奏先でモーツァルトのレクイエムでヘタ打ちまくって合唱指揮の先生から指揮棒投げつけられ、ヘロヘロになりながら毎日店で弾いて……考えることを神様が奪ってくれているかのような毎日を過ごし、何とか三年次を終えることができた。
春休み、と言っても決して遊ばせない音大は、合間にビッシリとホームレッスンを組み込まれ、伴奏スケジュールもバッチリ埋まり、多分、今日寝て目が覚めたら新学期……くらいのノリであっという間に過ぎていく事請け合いである。
久しぶりの休日、店で、中々形にならないレクイエムのオケ伴をさらっていると、突然政さんが駆け込んできた。
「京太郎くん! 」
「お早う、早いね」
「園子ママが……」
記憶が、ない。
気がつけば俺は、目の前の火葬炉に吸い込まれていく棺をぼんやり眺めている。ここはどこだろう、あれは誰の棺で……。
俺の後ろには、啜り哭く大勢の人がいて、震える手を合わせて棺を見送っている。どうして、何で泣いているんだろう。
「さ、お凌ぎの場に行きましょう。お手伝いをしなくては」
返事をしたつもりだけど、声にならなかった。
政さんに手を引かれるようにして、御遺体の火葬を終えるまでの軽食の場に、まるで雲の上を歩いているかのようにふわふわとした感覚で歩いて行った。姉貴の時と同じ会場で、それぞれの卓には寿司やら精進料理が並び、参列者を待っていた。
「政さん、なんか気分悪い……」
会場の上手に、園子ママの写真が置かれている。少し前の、綺麗に化粧した顔。写真の額縁は生花で飾られていて、ママをより柔和に見せている。
「ママ……」
少しずつ、思い出してきた。
「京太郎くん、少し座っていなさい。何もしなくていいから、ママと少しお話をしているといい」
会場のスタッフと慌ただしく飲み物を支度しながら、政さんは俺の肩を叩いた。俺、ちゃんと喪服を着ている。こんなもの、いつの間に引っ張り出したんだろう……。
ママは、突然、何の別れも言わずに逝ってしまった。実は、もう肺がんが大分進行していたのだが、皆にはそれを隠し、入院も拒み、痛み止だけを頼りに、店に立っていたのだと言う。
3日前、カウンターの中で倒れているのを見つけたのは、次のイベントのことで相談にやってきた町会長さんだった。
救急車が到着する頃には、もうママは旅立ってしまっていた。
あの日に食べた沙絵スペシャルが最後だなんて……。
「俺……」
独りぼっちになってしまった。姉貴を失い、姉貴の面影を沙絵スペシャルに投影して俺に合わせてくれていた園子ママが、いつも俺を遠くから見守ってくれた園子ママが、俺にとっての本当の母ちゃんのような人が……。
「園子ママ」
写真の前に、俺は額付いた。
火葬が終わり、小さな骨壷にみんなでママを収めた。元々華奢な人だったけど、ほんとに、ほんとに小さくなってしまった。
抱いてあげて、と言われて、俺が骨箱を抱いて斎場の建物から外に出た。東北沢に向かって伸びる道路沿いには、元々の水路を埋め立ててできた公園が大山町まで続いている。その道路と公園の界を示すように、桜が並んでいた。
「桜か……気付かなかったな」
もう7分咲きだ。仲通りの周りには、目を引くような桜はない。そう言えば、ママを新宿御苑の花見に誘っても断られた記憶がある。
「昔から嫌いだったわね、園子ママは。あんなもん美学でも何でもない、綺麗な盛りで散ってたまるかってさ……ババァになっても咲いてやるって」
「園子ママらしいわ」
ママの葬儀を手配したのは、二丁目の、マリネママを始めとする古参のママ達だった。殆どがママと世代の近い戦中派か、戦後の第一次ベビーブーム世代だ。街でも顔が広くママとの縁も深い。お骨をどうするかも、ママからちゃんと遺言代わりに聞いていたのだという。
「京太郎、あんたにも聞いて欲しいの。ママからの指名よ」
和服姿のマリネママが、ぼんやりと桜を見上げていた俺の肩を叩いた。
「深海魚のこれからのこと。ママはあんたを孫のように可愛がっていたからね。メッセージも、預かってるのよ」
その、ママの葬儀を取り仕切ったメンバーと、遺言に名があった俺を含む数名とが、代わる代わるにお骨を胸に抱くようにして『深海魚』に辿り着いたのは、もう夕闇が街を包み始める頃だった。
ママのことを知らない人たちが、嬌声を上げて街を通り過ぎていく。やがてここは、目にも賑やかにネオンの花が咲くことだろう。
カウンターに置かれたママの骨箱の前に、皆が思い思いに手を合わせた。
「じゃあ、時間も時間だから、僭越ながら、私が封を開けさせてもらうわね」
白い大きな封筒をマリネママが開けると、中から小さな封書が20あまり出てきた。ママは一人一人、宛名を確認するようにして手渡していき、俺の前に立った。
「京太郎、そして政ちゃんにも」
カウンターの中でお茶を用意したりと働いていた政さんが、驚いて手を止めた。ママがこくんと頷く。
「その前に、ここの皆へのママからの言葉を伝えます……私に何かあっても、街のためのイベントを中止したり、自粛なんてことは絶対にしないで欲しい。若い人たちを盛り立てて、楽しい街にして欲しい。傷ついてここに辿り着いた人間を包み込むような、懐の深い街であって欲しい、と」
封書を押し抱き、ここにいる全員がママの言葉を胸に刻んだのだった。
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