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13.シン・深海魚
政さんと店に戻ってきて、二人がそれぞれ無言でママのメッセージを読み、同時に大きく息をついた。
ママがこんなに俺を気にかけてくれていたのかと、改めて心の底から涙がこみ上げてきた。身体中の空気が全部無くなってしまうほど息を吐き出し、そのまま顔を覆ってカウンターに突っ伏してしまった。
政さんも、隣で絶句したように天を仰いだまま、暫く動けずにいた。
「京太郎くん……責任重大ですよ」
政さんが、グビリとグラスの水を飲み込んだ。
「君に、深海魚を譲渡すると書いてあります。勿論、方策としては、君が新オーナーとなり、営業自体は誰かに任せて、こことの二足の草鞋を履くことが妥当でしょう。けれど、あの街には経営手腕に長けた方はいくらでもいる。君は、受け継ぐ覚悟がありますか? 」
ピンと張り詰めた声だ。
俺もグラスの水を飲み干し、ふうっと息を吐いた。
「世話になったママのご指名なら、受けずば新宿の男の名折れってもんよ」
そうだ、俺は新宿生まれの新宿育ち。園子ママにこの街での生き方の薫陶を受けて育ったんだ、逃げてたまるか。
「だからさ、政さん」
「ん? 」
驚いたように政さんが目を見開いて俺を見た。
「力を、貸して欲しい」
俺は政さんに向き直り、その両手を掴んだ。
「経営のこと、それこそ店の譲渡のこととか、何にもわかんないし、何ができるかもわかんない。でも、政さんさえ良ければ……助けて欲しい」
じっと、政さんの両目を見つめた。この人の目は澄んでいて、揺れなくて、真っ直ぐで、強い。それでいて凪のような静けさで、俺の突拍子も無い申し出も逸らさずに受け止めてくれる深さに満ちている。
その黒い瞳が、柔和に細くなった。
「水臭いですよ。私とは家族だと、言ってくれたじゃありませんか。このところ少し、君は脱皮寸前で踠いているようで、このまま心が離れたらどうしようと、実はちょっと私も焦っていました」
「えっ」
「君と離れるのは、最早私には耐え難いことです」
政さんはスツールから下りて、俺をしっかりと抱きしめてくれた。暖かい、本当に暖かい。ママや姉貴を思っても、こういう包み込まれるような暖かさは手に入らない。こうして、ここにいる人に、抱きしめて欲しいと言わないと、得られない。彼の熱は、立っているのも辛いほどに、無駄な抵抗力を溶かしてしまう。もう、何の突っ張り棒も、俺の中には存在しない。
「家族は、喧嘩をしたって一緒にいるものなんですよ」
「ふぇっ……」
妙な声を皮切りに、俺は声を張り上げて泣いた。政さんの喪服の肩口に、涙と鼻水とヨダレをたっぷりなすりつけて、俺はガキのように泣いた。
「私がいます、京太郎くん」
大丈夫だ、この人さえ側にいてくれたら、きっと俺は頑張れる……。
『深海魚』には、ママから生前声をかけられていたメンバーが揃っていた。
その中には光樹さんもいた。元々調理師免許に製菓衛生師も持っている彼は、食品衛生責任者の資格があり、すぐにでも店を開けることができるくらいだ。他のメンバーもそれぞれ飲食店の経験豊富な人達で、この街や周辺に自分の店を持っている。
「俺みたいな若造が、遺言とはいえ、ここを切り盛りさせて頂くことになるにあたって、色々ご意見もあるかと思います。でも、ここがこの街のオアシスだったり駆け込み寺だったり、憩いの場であり続けることがママの遺志なので、何とか守っていきたいと思います。すみません、お力とお知恵を、貸してください」
俺は素直に頭を下げた。
「京太郎、ここにいるのはさ、どいつもママに命を助けられたくらいの恩を感じている奴ばかりなんだ。心配ない。何とかやっていこう」
一番年上の、仲通りの外れでジャズ・バーをやっている中富さんが、そう言って音頭を取ってくれた。
おかげでスムーズに話はまとまり、交代制で可能な時間帯をみんなで埋めていこうということになった。
勤務帯は超ざっくりと、
この辺りのお店の仕込みが始まる16時から21時までの飲み屋タイム、
21時から午前2時までの深夜お疲れタイム、
の2部制となった。そうすれば、自分の店の仕込みと営業のバランスを見ながら深海魚に入れるし、俺達も自分の店が21時ラストオーダーなので、深夜帯などは深海魚に入ることもできる。
その辺りは、二週間毎を目処にシフトを組むこととなった。その管理は、俺と政さんの仕事だ。
政さんは、ママから預かった遺言書の中に入っていた鍵を使って、銀行の貸金庫からレシピ本を取り出していた。店の権利書だの主な書類もその中に入っていた。
「ここから使わせて頂くのは、京太郎君が大好物の沙絵スペシャルや、皆さんの記憶に残るママの味というところでしょうか。ママの遺言の中にも、ママのやり方に拘らず、新しい事をどんどん取り入れて欲しいとありましたから、皆さんの強味や特徴を出して行かれたら良いのではと思います」
政さんの言葉に、そこにいる全員が頷いた。
まずはママのレシピの中から、街の連中に人気のメニューや、それぞれの思い入れのあるメニューをピックアップし、レシピを共有してそれぞれ同じものが作れるようにしておく。その他に、担当する人のオリジナルメニューを掲げ、特徴を出していく方向に決まった。
早い。俺が考えているよりも、ずっと進行のテンポが早い。皆、ここを1日たりとも閉めておきたくないのだ。
後は、仕込みの取引先だけは、この店の繋がりをそのまま踏襲することになり、一度解散して政さんと俺とで仕入れ先に挨拶回りに出かけることにした。
翌朝、『深海魚』の四月からのシフト表が早くも届いていた。
「さ、税理士さんのところに行きますよ。ママが亡くなって7日以内に、死亡届書と廃業届を出す必要があります。ママは亡くなる前から税理士さんに相談してあって、必要な書類や準確定申告に必要な書類も揃えてくれているようですから、後はこちらの手続きです」
「忙しいんだな……」
「ちゃんと事業継承ができて、『シン・深海魚』が無事発進したら、二人でゆっくりママを偲びませんか? 」
シン・深海魚か……俺は頰を叩いて立ち上がった。
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