17.バイト

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17.バイト

 教育実習の準備で忙しい筈なのに、和貴は光樹さんが復活するまでの間だけでもと、『スナック・沙絵』でのステージを買って出てくれた。どんなに忙しくても絶対穴は空けない、そう強い目で俺に約束してくれた。 「こんな時こそ、光樹兄ちゃんを助けたいんだ。せめて、このくらい、手伝わせてよ」 「いいのか、彼女との時間もなくなるぞ」 「恋愛は恋愛。僕には光樹兄ちゃんを助けて、親友に迷惑をかけない事の方が今は大事なんだ。それで四の五の言うなら、そこまでだよ」  こういうところだ。和貴はこういう時、決断も判断も早い。こいつは実は、鋼のハートの持ち主なのだ。 「じゃ、暫く甘えさせてもらうよ。但し、無理はすんなよ。光樹さんにはゆっくり養生して欲しいし、早いうちに体制を何とかするから」  深い事情までは話さずとも、一応、生島や笠松にもヘルプは頼んである。ただ、ステージはともかく、奴らにはホールを頼むことができない。慣れない作業で怪我でもされたら大変だからだ。 「京太郎がやってるんだ、僕にもできる」  そう言ってトレーに乗せた水入りのグラスを、三歩でひっくり返した男に、とても給仕は頼めまいて……。 「和貴はステージのことだけ考えてくれたらいい。それで十分過ぎる」 「もう、信用ないなぁ」  給仕に関しては、だ。  授業が終わると深海魚に直行し、卸さんが置いていってくれた酒やらおしぼりやらを店の中に運び、業務用の冷凍食品の在庫を確かめる。今日、届く筈だから日付順に整理して……テーブルごとの清掃を丁寧に済ませてペーパーナプキンをセットして、ビールサーバーに新しい樽をセットして……。  入り口側のショーケース。ここにはいつもスイーツが並んでいて、お姉さん達の出勤前の癒しになっているのだが……光樹さんの手作りとはいかなくても、何か用意するかな……。  と、ぼんやり立ち尽くしていると、ちょっとドスの効いたカウベルを鳴らして入り口のドアが開いた。  あの時の……乱暴されてここで蹲っていたあの子が、そこにいた。 「君、大丈夫なの? 」  深々と頭を下げ、その子は俺に礼を言った。  テーブル席に座らせ、俺はその子の前に賄い用のサンドイッチを置いた。 「お腹、空いてない? 」 「あ……頂いて、いいですか? 」 「どうぞ」  その子はひとかけ、タマゴサンドを手にして頬張った。 「美味し……本当に、美味しい」 「だといいけど。それ、俺が賄いで作ったヤツ。この前の着物の人が作ったら、もっと美味しいよ」 「どうしてますか、あの人。お礼が言いたいのだけど」  男の子はそこでやっと、名前を言った。 「関口(せきぐち)大和(やまと)くん……へぇ、4月からこっちの高校に? 」 「はい。どうしてもこっちの学校に通いたくて……戸山台学園です」 「え、めっちゃ頭いいじゃん」 「そんなことないです……で、ここで、バイト、させてもらえませんか」  戸山台学園は私立のまあまあ進学校だ。そんな暇があるのかな。 「親御さん、知ってるの? 」 「実は、実家は熊谷で、母方の爺ちゃんの家が市ヶ谷にあるので、そこに居候するんです。爺ちゃん一人暮らしで、まだバリバリの現役リーマンで、夜は遅いし……あの凄く綺麗な人に、恩返し、したいんです」 「無事に元気でいてさえくれたなら、光樹さんは十分だと思うけど」 「それでは気が済まないんです、それに……僕、自分のことを知りたいんです。この街で色んな人と会って、自分が何なのかを、知りたいんです」  高校生か……確かに、一番色んな事に迷う時期だよな。 「学校は、バイトは大丈夫? 」 「大丈夫です」 「早くてここに着くのは何時? 」 「夕方5時には着けます」 「了解。じゃ、一応17時から。でも、18時までに入ってくれればいいので、学校の用事で遅くなりそうなら無理せず必ず連絡さえ入れてくれればいい。上りは21時半で、22時までには必ず店を出るように。時給は1000円からでいい? 交通費は別に出すし、夜ご飯の賄いもつける。仕事覚えてくれたら、二ヶ月後あたりを目処に、1200円ベースに上げるから。あ、黒Tシャツと黒パンツが制服代わり。厨房に入るときはエプロン、でいい? 」  はい、と威勢の良い、でもボーイソプラノのような可愛らしい声で大和が満面の笑みで返事を返してくれたとき、裏口から仕込み担当のおばちゃんが入ってきて、カウンター越しにひょっこり顔を出した。 「おはようございます」 「おはよう典子(のりこ)さん、今日も宜しくお願いします」  この近くのラブホで厨房スタッフをしているおばちゃんだが、改装の為に暫く休まなくてはならなくなったとこの店で零していたのを聞きつけ、俺がスカウトしたのだ。試しに作ってもらったら、ゼンマイの煮付けやら肉じゃがやら、おばちゃんの煮物はどれを食べても絶品だった。元々保育園の調理師だったとかで、資格もあり、営業面でも最高の人材である。 「ねぇ、もういい? 」  早速、クラブに出勤前のお姉さん達がぞろぞろやってきた。 「どうぞ、入って入って」 「あらぁ、可愛い子、バイトぉ? 」  すると、大和は立ち上がって完璧なスマイルで会釈をした。こいつ、実は凄い逸材だったりする? 「大和です、よろしくお願いします。あ、すぐお冷お持ちしますね」  るんっ、とハートマークがつきそうな足取りで、大和はカウンターの中に入っていった。 「ちょっと、いい子見つけたじゃん、京太郎」 「まぁ、ね……どうする? 典子スペシャルにする? 」  典子スペシャルとは、おばちゃんの焼うどんで、最後に目玉焼きがどーんと鎮座するのである。広島のお好み焼きソースを使っているとかで、瞬く間に人気メニューに上り詰めていた。 「それそれ、それ3つね」 「大盛り? 」 「やぁねぇ、乙女は小盛よぉ、と見せかけて大盛りぃ」 「はい、毎度」  こんな風に、これといった定型のないまま、深海魚はまた泳ぎ始めた。  仲通りというこの面白い街で、毎日毎日ふらりふらりと形を変えながらも、必ず、そう、必ず、泳いでいるのがこの店なのだ。
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