19.いつもの

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19.いつもの

 常連の谷村さんの言葉に奮起した俺は、つい丸投げになりつつあったステージを見直し、自分で弾くプログラムの中にも再びクラシックナンバーを増やすように心がけることにした。  園子ママの追悼記念を兼ねた仲通りのイベントは、昨年が大盛況だったこともあり、今年は道路の使用許可もスムーズに下りた。他の店のママさんたちが主体的に動いてくれているので、俺が駆けずり回る必要もなく、粛々と進んでいる。音楽イベントは、『ラ・セーヌ』があのオープンカフェスペースを解放してくれることとなり、メインステージを引き受けてくれた。   「来たよー」  店でイベントのプログラムを組んでいると、光樹さんがフィナンシェを大量に持ってきてくれた。 「今日、団体さんでしょ」 「そうなんだよ、助かる、有難う! 」  スツールに座る光樹さんは、無造作に結い上げた髪に、Tシャツにジーンズ、ニットのジレをさらりと羽織るスタイルだった。それだけなのに酷く格好いい。 「和貴君のCD、よく売れているそうですね。ウチもお陰様でご新規のお客様が増えました」  政さんがアイスコーヒーを出すと、光樹さんは「ありがとう」と言って、ストローを指で弄び始めた。 「あの子ねぇ……あんな年増のクソババァに食べられちゃって」  弟を心配する兄、というより、息子を嫁に取られた姑か? 「そういえば笠松君見た? ね、磨けばヤバイ玉だったでしょ! 」 「そうでしたねぇ、ジャケットの写真を見ても誰だかわかりませんでした」  その笠松君、学校では既に元のヒゲモジャ君に戻っています……。 「でもさ、やっぱり一番はアンタよ」  アンタ……園子ママの口癖。一瞬、光樹さんの声があの酒焼けした嗄れ声に聞こえた。 「凄く綺麗な音だよね。元々優しいピアノを弾く子だなぁとは思っていたけど……二人の音は凄く相性もいいし、お店でもよく流しているんだよ」 「そうなんだ……なんか、小っ恥ずかしいな」 「ありがとうね。ウチの和貴をあそこまでにしてくれて。背中を押したり引いたり、無理くり引っ張られたり、大変だったでしょ。アタシ達がつい甘やかしちゃったから、天然ワガママ大魔王だし……あのクっソババアも今に根を上げて熨斗つけて返してくるさ、ひっひっひ……」 「やめなって、もう……」 「和貴君の演奏、とても大人になりましたよ。パイナップルの青みのある棘の中から熟した実が出てくるような……ええ、心の奥の柔襞が揺さぶられるかのような、艶のある演奏です」  パイナップルかぁと呟き、光樹さんはコーヒーを飲み干した。 「京太郎は、まだまだ収穫前かな。ねぇ、まっささーん」 「え、まぁ……そうですね」  同じこと言いやがって……。 「じゃ……俺が優しく収穫してあげようか」  光樹さんが目の端にとてつもない色気を湛え、痺れる低音で俺の耳元で囁いた。ああ、ブルガリアン・ローズの芳香が……。 「やだ京太郎ってば、マジ可愛い!! じゃ、行くね」  可愛いって……残り香を胸いっぱいに吸い込みながら、俺は足取り軽く出て行く光樹さんの後ろ姿を見送った。 「良かったです、元気になられて」 「うん」 「お兄さんの久紀さん、暫く仕事を休んで寄り添っておられたと聞きます」 「恋人の、だろ」 「そうでしたね。この街にいると、大抵のことには驚かなくなります」 「だね。今日さ、政さん、何かリクエストある? 」 「え、でも団体さんがいらっしゃるから、和貴くんとデュオを……」 「9時には引けるよ。和貴も教育実習があるから早めに帰さなきゃだし」  政さんは手を止めて、じっとピアノを見つめた。 「ここに来て一番最初に聞いた貴方のピアノが、私を暗闇から救ってくれたんです……だから、あの曲、ショパンのバラードの4番が聞きたいです」  あの時はまだ、コーダの部分は指を動かすので精一杯で、何が書いてあるのさえ分からなかった。  今なら、少し、わかる。何故、旅の最後にあんな心を掻き乱すような怒涛のパッセージがあるのか。  吟遊詩人が旅の果てに、愛しい誰かを想ったのだ。激しく、渇望するかのように。手が届かぬ所にいる誰かを。 「わかった」  俺は、光樹さんのグラスを下げようと伸ばした政さんの手に触れた。  いつものように、優しく、政さんの手は俺の手を包んでくれた。  水に濡れて少しヒンヤリとした、大きな手。  俺の家族は、ここにいる。  決して届かぬ遠き所に想いを馳せて、切なさに身を捩らなくても、ここにいる。 「政さん」 「はい」 「ずっと、いてくれるよね」 「ええ、愛想を尽かされるまで」  しっとりと湿った手が、俺の頬に触れた。いつものように、俺の心臓がドクンと跳ねる。この瞬間が、とても好きだ。 「敬語、やめるって約束したじゃん」 「そうでしたね……でも、やはり私はこのまま、貴方にずっとお仕えしたい」 「変なの。執事みたい」 「あ、それいいですね。貴方だけの、執事」  二人だけしかいない仕込み前の店。何百回と繰り返してきたいつもの時間なのに、ブルガリアン・ローズの香りを嗅いだせいか、鼓動が止まらない。 「執事って、キス、してくれるのかな」  俺じゃない俺が口にしているみたいだ。  いや、そうじゃない。俺が、口にした。  そう望んで、口にした。 「ええ、心を込めて」  俺の頰を包んでいた冷たい手に熱がこもり、頰を撫でるように滑り落ちて俺の頤を指で支えた。  導かれるように、ちょっと荒れた唇が重なった。        
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