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3.イチゴ
ツンとくる臭いに、俺はゆっくりと目を開けた。白い世界。天井には大量生産のどこにでもあるような型押しの白い壁紙。そこそこに古そうなベッド。
ベッド……? ああ、そういえばと左腕を見ると、点滴の管が繋がっているではないか。ソルデム……要はブドウ糖だ。
病院なのだろう。そこまで判断するのにどのくらい時間がかかったことか。
ここに至る経過も思い出せず、現状の把握もできない。
「ああ、気がついた」
記憶にある嗄れ声。開けっ放しの病室のスライドドアの向こうから、二丁目の生き字引『深海魚』の園子ママが早足で近寄ってきた。少し動き始めた頭を振って部屋を見渡す。4人部屋だ。俺は廊下側の、入り口を背に左側に寝かされている。
「何でママが? 」
「丁度健康診断の結果を聞きにきてたのよ。ここの先生、長い付き合いだからさ。それよりアンタ、驚いたわよぉ、何だって運ばれちゃったのよぉ。下でオロオロしてる政ちゃんに会ってさ、びっくりしたわよアンタ」
ミルクティー色の髪をひっつめにして結い上げたママの顔は、80には見えない。ツルツルで、化粧っ気がなくても綺麗だ。俺は、こんな風にスッピンのママの方が、女性っぽくて好きだったりする。
「政さん、何してるの」
「先生にお話聞きに行ってると思うけど。政ちゃんは正式な成年後見人じゃないからね。ただ1人の従業員として聞きに行ってるだけだから、多分、ちゃんと答えてもらえないんじゃないかしら。あんた、一応20歳超えてるし」
従業員、か。そうなんだ、俺には、俺の体調を知ることができる家族が、いないんだ。
「あたしも、だけどね」
「ママ」
「全部、1人でやってるわよ。今日も、それで私が自分で健診の結果を聞きにきたってわけ」
急に、この世にポツンと取り残されたような気分になった。ここのところ、店も俺1人で演奏するばかりだったし、学校でも、殆ど1人で過ごしていた。
「京太郎、私ね、夜の営業はもう、やめようと思うの」
「え、ママ……」
「お店は閉めないわよ。だってさアンタ、食べていかなくちゃだもん。でも、夜はもう、キツイのよ。ここのところ9時ラストオーダーにさせてもらっていたけど、それもキツイわ。だから、ランチと、せいぜい町のみんなが仕込み前に食べられる夕方までの営業に変えようかと思って」
夜9時を過ぎないと開かないお店、それが『深海魚』だった。早い時間に行くと怒られて、仕込みの酒屋さんなんて勝手口の鍵持ってて、午後に勝手にドア開けて厨房の中に置いて行くくらいだ。
80……いくら若く見えるからと言っても、やはりキツイはずだ。しかも滅多に人を雇わない。駆け込み寺の役割も果たしているだけに、軽々しく話の内容が外に漏れないよう、よっぽど団体客の予約でもなければ、人を雇うことはなかった。
「そんな悲しそうな顔しないで。アタシだって、いつまでも絶倫の美熟女ってわけじゃないのよアンタ」
言ってない言ってない……そんな軽口も、出てこなかった。
「ランチは、死ぬまでやるから。沙絵スペシャル、食べにおいでよ」
「俺、授業がない日は手伝うよ」
「馬鹿ね、練習しなさい。サボったりしたらアンタ、あの世で沙絵に言いつけるわよ」
あ、そうだ、と、ママはビニール袋に入ったイチゴを俺に見せた。
「いくらも入ってないわよ、1人じゃ食べきれないものね。でも、ちゃんとビタミン摂りなさいよ」
そう言って、ママは振り向きもせずに行った。ありがとう、と背中にかけた言葉は届いているかどうか。いや、届いていても、聞こえないふりをしてサッと小粋に去るのが新宿流だ。
ベッドの背もたれを電動のリモコンで起こし、俺はママがくれたイチゴの袋を膝に乗せてしげしげと眺めていた。1人で食べきれる絶妙な個数が入ったイチゴのパックだ。ママも1人が長いから、1人の量を知り尽くしているのだ。
1人……慣れている筈だったのに、ここのところ、1人という言葉がヤケに大きな音になって耳に入ってくる。
誰も入院していない4人部屋で、1人……。
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