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4. ソロ
ソルデムの点滴液がカラになると、すぐに帰宅させられた。基本、どこも悪くない健康体だから、とっとと帰れと言わんばかりであった。
帰りの車の中、一切の世話を請け負ってくれた政さんは、ずっと黙ったままであった。
病院は、新宿の大学病院だった。確か銀座にいた筈なのだが、ここの方が何かと家に近くて便利だと、運んでくれたに違いない。
診断は、過労とストレス。睡眠と栄養をしっかり摂るようにと、言われた。
政さんは、食生活のことやら何やら色々医者に聞き込んでいたらしいが、俺はそんなもの、糞食らえだ。
店に戻りたいとゴネる俺の我儘を聞いてくれて、政さんは先に俺だけ店の前で下ろし、車を自宅の駐車場に戻しに行った。
今日は、部屋には帰りたくなかった。あそこにはまだ、姉貴の服やタンスが置いてあって、いつもなら姉貴がいてくれるようで温かみを感じるが、今日は、今日は……多分辛くてたまらなくなりそうだった。
予約表を確認して、俺はピアノの前に座った。そこそこの人数が入ってるから、やはり休むわけにはいかない。タフな曲は無理だが、柔らかな、疲れた心に刺しこむことなく沁みるような、優しい曲にしよう。憎たらしいが、笠松の曲が、やはりしっくりとくる。
モーツァルトを中心に、笠松の曲を数曲取り混ぜてプログラムを組み、大体のステージ分は確保することができた。少し鳴らしながら曲順を精査していると、車を置いてきた政さんが、ペットボトルの飲み物を袋に入れて戻ってきた。
「何をしているんです、京太郎君。休んでいなくちゃダメでしょう」
政さんが、少し苛立ったような声を上げた。余裕がない俺は、まともにカチンときてしまった。
「予約表見りゃ解かるだろ。俺しか弾かないんだから、俺がプログラム組み立てなきゃしょうがないじゃん」
「何を言ってるんです、今日は定休日ですよ! 」
「だって、予約表……」
譜面台に置いた予約表は、よく見たら明後日の日付になっていた。
「あれ……」
「明日も私の独断でお休みにさせていただきました。予約は二組しか入っていませんでしたし、元々あまり混む曜日ではありませんでしたから、私からお客様に電話申し上げました。日にち変更で済みましたから、次回、何か飲み物をサービスさせて頂きましょう」
その言い方も、今日は癪に触った。
「明日も俺の考えで休んだぞ。予約は2組だけだし、混む日じゃないから問題ないだろ。俺から客に電話しといたし、日にち変更で済んだから、次回、何か飲み物でもサービスすればいいと思うぞ……」
政さんのセリフを、俺はそう言い直した。
「何のつもりです」
「あの悠太って人に話すとしたら、こんな風に言うんじゃないのかなって」
政さんは溜息をついて、VIPとスタッフ専用となっている入り口のカウンターのスツールに腰をかけた。と言っても尻を半分だけ引っ掛けるように、長い足をいつもより少しだらしなく放り出すように。
「悠太とは……地元の高校まで一緒だった幼馴染です。彼は古美術を学ぶべく美大に進み、別々になりましたが……都会で何とかやれるようになってからも、互いを応援しながら頑張ってきた、言わば戦友です」
「じゃ、俺は何。敬語を絶対に崩さない、他人? 」
「あなたは……私の雇用主ですから」
雇用主、か。確かに、成年後見人でもないし、保護者でもない、それどころか、ここを俺が姉貴から引き継いでからは、俺が政さんの生活を保証すべき雇用主に違いないのだ。政さんがいなけりゃ、経営は成り立たないってのに。
「定休日なら、好きにしてよ。ここにいなくていいから」
「京太郎君」
「休みの日まで無理に一緒にいる必要ねぇだろ! たまにはその地元の友達と飲んだりしてこいよ。ガキの相手なんざ、しなくていいんだよ」
Shigeru Kawaiに向き合い、俺は弾き出した。政さんの反応を確かめるつもりはない、というより、確かめたくない。
パタン、というショボい音がして、政さんの姿は消えていた。
生理前の女って、こんな風に不安定になるのかな……などと自分で自分を嘲笑いながら、俺はさして気の入っていない演奏を続けた。指だけは、動かしておきたい、頭は馬鹿になっていても。
2時間たっても、店の中には俺だけだった。練習に少し疲れて店中を見渡すと、昨日の閉店後に仕掛けておいた燻煙タイプの殺虫剤がそのままになっていた。慎重に、あちこちに死体が転がっていないか確かめながら、空になった缶を回収してゴミ袋にまとめた。ピアノの裏側にいつも貼り付けておく布も外し、あちこちのピニールクロスも外した。この時期はあまり出ないが、ここでしっかり叩いておかないと夏先に大変なことになるのだ。月に一度、定休日前夜には必ず燻煙剤を仕掛けている。
ゴキブリ一匹、引っ繰り返っていない。本当に、俺一人きりだ。
何がしたいんだ、一体、俺は……。
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