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6.家族
あの後、和貴が帰ってきて、光樹さんの胸に顔を埋めて泣きわめく俺を見て、持っていた鞄を取り落として固まった。
光樹さんがざっと理由を説明すると、和貴は「ごめん」と言って俺の背中にしがみ付いてきた。21歳の男が二人、兄貴に抱きついて泣くなんざ滑稽以外の何物でもない。でも、泣くだけ泣いたらスッキリした。
3人で散々飲み食いをし、俺はタクシーで帰るように言われたが固辞し、風を気持ちよく受けながら大山町の坂道を歩く方を選んだ。
「週明け、2台の練習室を取ってあるんだ、付き合ってよ」
俺の背中に、見送りに出てきた和貴がそう叫んだ。2台ピアノの曲なんて、暫く和貴と攫っていないけど、何を弾こうというのだろう……そんな呑気なことを考えるうちに、代々木上原の駅に着いていたのであった。
ふらふらと、俺は何故か店に辿り着いた。ちょっとビールを飲みすぎたかなぁなんて、鞄の中で迷子になっている鍵をガサゴソ探していると、中からドアが開けられた。
「何をやっているんです、こんな時間に」
硬い表情で言い放ったのは、外でもない、政さんだった。
「ママは燻煙剤を使った後の虫の死体が苦手でしたから、今日も何となく習い性で掃除に戻ってきたんですが……京太郎くんが片してくれていたんですね」
カウンターに座って上半身だけ落ち着きなくユラユラしている俺に、政さんがそう言いながら水をくれた。いつものように、マグカップで。グラスだと指が疲れている時に滑って落とし易い。指を引っ掛けて持つことができるマグカップの方が、何かと気楽でいいのだ。
「どこかで飲んできたんですか」
「……和貴の家」
素直に答えた俺に、政さんは安心したような溜息をついた。そしてやっと顔を綻ばせてくれた。
「貴方をそこまで受け入れてくださる家があって、良かった。和貴君と話せましたか」
「話せた……政さん、一つ頼みがある」
政さんの、この折り目正しい落ち着いた話し方は、それだけで『ザ・政さん』という感じがして好きなのだが、あの霧生家で馬鹿騒ぎしてきただけに、余計に距離を感じて切ない。
「敬語、やめて欲しい」
「え、そこ、ですか」
「そこ、です」
「気に入りませんか」
「気に入りません」
「困りましたね」
「困ってます」
政さんはクスッと笑って、自分用のマグカップに期限切れのボトルのバーボンを少し注いでカウンターに置くと、俺の後ろを回り込むようにして隣のスツールに座った。
「私は一度破綻した人間です。けじめは、崩すべきではないと、そう思っていました。実際貴方は私の雇用主です、ここをクビになったら私は食べていけない。でも、雇用主の命令とあらば、従わざるを得ませんね」
「そんな言い方するなよ、そうじゃなくて、俺は……」
「分かっています。ではこうしましょう。お店の営業中は今まで通り。プライベートの時間では、敬語はやめることにする。如何ですか」
何だか開き直り感というか、大人が譲ってあげますよ感というか……でも、提案は提案なので、頷くしかない。
「じゃ、それで」
「はい。では、それで」
政さんは、カップの中のバーボンを一気に飲み干すと、カウンターの中に回り込んでそれを洗った。ついでにと、俺のカップに手を伸ばした時、たまたま残りがないか確かめようとした俺の手と重なってしまった。
政さんの手が俺の手を包んだ。俺が手を強く握られるのが嫌いなことを知っているこの人は、そのまま真綿のように、大きな手で俺の手を包んだ。暖かく、柔らかく、そして優しく。
「政さん、もう一杯、付き合って」
途切れ途切れに、やっとそれだけ口にした俺に、政さんは頷いた。
「一杯だけですよ……えっと、一杯だけだぞ……ああ、やっぱり慣れませんよ。私はこう見えてもゴリゴリの硬派な男子高出身なので、敬語を崩すのは至難の技なんですけどね」
「でもあの悠太って人は……」
「ははぁ……」
政さんが、いつもの紳士然とした澄まし顔を崩して、悪戯げにニヤリと笑いながら俺の顔を覗き込んできた。
「ヤキモチ、ですかね」
クッ、と思わず喉の奥を閉めて固まってしまった俺を、江戸の仇を長崎で討ったかのように政さんが笑った。
「可愛いですね、ホントに君って人は。新宿育ちで色んな人間模様の中で揉まれて生きてきたとは思えない程に真っ直ぐで。いや、沙絵ママがそう育てたんですね、君を。何物にも染まらない、真っ直ぐな心に」
やっと、政さんが俺の方を向いてくれた、ような気がした。
泣きたい程に柔和な表情で微笑み、眠りたくなる程に優しい声で語りかけてくれた。
中二病かな、やはり……。
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