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8.収録
何となく、ギクシャクが、ギッ……くらいにまで戻り、俺が直ぐにテンパる以外は大体通常モードに戻り、病み付きナポリタンも俺の胃の中に戻ってきた。和貴とは二台ピアノの曲は学校で練習し、一台で弾ける連弾曲は、開店前に店で練習する、という日が続いていた。
「ここのところ、随分と熱心に合わせてらっしゃいますね」
和貴が帰った後、開店準備をしながらポロっと、和貴がCDを出すらしい、と唐突に政さんに告げた。するといつもの笑顔で「そうですか」と答えただけだが、その協演相手が俺だと告げると、磨いていたグラスを取り落とす勢いで素っ頓狂な声を上げた。
「凄い、凄いじゃないですか!! 」
「凄いったって……」
「もう、君は何だってそう腰が引けちゃうんですか。君の素晴らしい演奏を知って頂くチャンスじゃありませんか。和貴君とのコラボならもう、間違いなしですよ、最高ですよ、ビルボードも夢じゃありませんて」
「んな大げさな……」
「お店のお客様にも沢山宣伝しましょう!! 」
ああ、まぁ、そこはねぇ……お店の売り上げにも和貴の神輿でちょっと貢献してもらおっかなぁなんて餅を絵に描いちゃったりはしているんですが……。
「プログラムは決まったんですか」
政さんはカウンターに身を乗り出してそう詰めてきた。
「うん、だいたい……笠松の曲も何曲か入れるつもりみたい」
「みたいって? 」
「決めるのは和貴と事務所だから」
「まぁ、そうなるのは仕方ないんですかね……私は君のプログラムのセンスの方が良いと思いますけどねぇ。意見を言ってみたら如何です」
政さんは存外親バカだね、なんて言ったらヘソ曲げるかもと、俺は曖昧に返事をするに留めた。
俺はあくまで添え物だ。主役は和貴。和貴の名でCDを出すのだから。俺なんてカレーで言えば福神漬、ハンバーグで言えばパセリのようなものだ。
「……なんて、考えてない? 」
収録の日、事務所が用意した300人程度収容できる規模のホールで、舞台に向き合わせに置かれた二台のフルコンサート・ピアノで、口開けにアレンスキーの組曲『シルエット』の第1曲目を弾きだしたら、たった二小節で事務所のマネージャーと称する怖そうなお姉さんからダメ出しが飛んできた。
「君は福神漬でもパセリでもない。和貴と対等に音楽を作ってくれる気がないなら、帰りなさい」
「あ、えっと……申し訳ありませんが、取り敢えず一通り自分の機械で録音してみてチェックさせてもらえませんか。俺、ここのホール初めてなんで、ちょっと響きに慣れなくて」
知らないババァに勝手なこと言われてたまるかっ! と思いつつ、ここで怒らせたりしたら和貴にも迷惑がかかるので、俺は精一杯紳士的にお願いをした。
「素人はこれだから……」
こんのクッソババア……と和貴を見ると、口元をプルプルさせて笑いを堪えている。
「美恵子さーん、京太郎はプロ中のプロだよ、彼の思う通りにして良いでしょ。時間はあるんだよね」
するとクソババァはやけに目尻を下げて、鼻にかかった甘ったるい声を出した。はいはい、和貴はドル箱の宝物でしょうよ。
「あるけどぉ……ホントにこの子で良いのぉ? この前の飯山君の方が良かったんじゃないのぉ? 替えたかったら今からでも良いのヨォ」
「ま、美恵子さんにもわかるよ」
俺の方に向き直った和貴の顔から、笑みが消えた。
「やろう」
「おう」
俺は舞台から飛び降りて、客席に置いたZ00MのH4という二昔前以上の古い録音機の録音ボタンを押して再び舞台に上がった。
「悪いな和貴、もう一度、頼む」
とにかく一通り、このホールの癖を掴んで、客席でのイメージを確認したい。自分がどう弾きたいか、ではなく、どう聞こえているか……俺が演奏する上で気になるのはいつでもそこだ。そこを確認した上で、技術的な段取りを細かく掴んだ上で、それで、初めて感情を無にして音に委ねていけるのだ。
二人で片方ずつイヤホンを耳に捩じ込んだまま、演奏分の時間を録音のチェックに費やし、何箇所か細かい修正をして、抜き出しの練習をして、全てを擦り合わせて、少し休憩を取った。
笠松がつい一昨日仕上げたばかりの曲は、ホールで弾くと驚くほど幻想的で、柔らかく、絶妙なコントロールを要する繊細なタッチを要求される曲に仕上がっていた。和貴は完璧なタッチで実に柔らかく、まるで弦楽器のような伸びやかな音色で歌っていた。その問いと答えを繰り返すパッセージでは、俺の音はまだ肚が決まっていない散漫さが見え隠れしてしまっている。
「少したっぷりめに歌って良いかな、あそこ」
「勿論。よく言うじゃん、押し倒せって。僕を押し倒してよ」
色っぽいことを言うようになったなぁ、だなんて和貴の横顔を見ると、鉛筆を口にくわえたままホールの天井に目を向けていた。残響だ。ホールの残響をよくよく計算した上で、頭の中で演奏を構築し直しているのだ。
心なしか、和貴の歌い方に余裕が出てきたように感じる。とても豊かで、大人っぽく、完璧に整った真珠の玉というよりはむしろ、シャボン玉のような儚さや不安定さもあって……要するに、生々しい程に人間ぽい。スランプだった頃のあの予定調和丸出しで機械的な演奏と同一人物とは到底思えない。
休憩は終わりだ。
「では、本番、宜しくお願いします」
和貴との真剣勝負、俺は一歩も引かない。
ピアノの椅子に座る前、俺たちは大きなピアノを挟んでお互いの目をしっかりと見据えて頷いた。
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