9.心臓の奥

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9.心臓の奥

 超過酷な収録を終えて、流石に店で弾く余力は全くなかった。譜面がギリギリになってしまった詫びにと、笠松が珍しく演奏を買ってて出てくれた。オール笠松ナンバーだが、今日は女性客も多く、図に当たったと言って良かった。 「まだ頭から煙出てそう……」 「笠松君が言ってましたよ、事務所のマネージャーさん、無茶苦茶厳しい方らしいですね」 「よくあれで和貴が泣かずについていってるよぉ……揉まれてんだなぁ、お坊ちゃんの癖に」 「だから言ったでしょ、君の方がまだ収穫前のパイナップルだって」  確かに……和貴はあんな厳しい連中とも互角に渡り合い、収録後も打ち合わせをするとか言って、あのババアと一緒に事務所に戻って行ったくらいだ。大人との鍔迫り合いに慣れているとしか思えない。 「君は、あまり人に使われる経験をしたこともありませんしね」 「まぁ、そりゃそうだけど……」 「そこが君の可愛いところでもありますが」  だから、この街でそう言うことを言うなって……でも、ちょっと嬉しい。  だが、現実はもっと奇なものだった。  数日後、音源のベースができたから、チェックがてら聞きに行くことになり、事務所で和貴と落ち合うことになった。  少し早めに着いたので、先に事務所が入っている雑居ビルのエレベーターに乗り、目的の3階で降りた時だった。  目の前の磨りガラスのドアの向こうから、女の甘えるような声が聞こえてきたのだ。 「あなたのタッチ、素敵だわ……」  ええと、何が素敵なんでしょうか。 「もっと……ねぇ……」  俺が来ること、ご存知かと思いますが……。 「ねぇったら……もう、意地悪ね……和貴」  えっ?!  和貴と言ったか、和貴と言ったよな、まさか和貴……あのクソババアと……嘘だ、あんな、純情丸出しの、御坊ちゃま君の癖に……。 「あれ、早かったね」  しゃがみこんでしまっていた俺の頭に、事務所のドアが激突した。悶絶して更に頭を抱え込んでアルマジロ状態になった俺を見下ろし、和貴がさらっとしれっと、声をかけてきた。 「ごめん、先に美恵子さんと聞いてたんだ。ちょっとモーツァルトで気になる部分があってさ、ねぇねぇ」  ええ、だって今おまえ……入って良いのかと躊躇する俺の手を引き、和貴は涼しい顔でクソババアに俺を引き合わせた。  クソババアこと守谷美恵子が腰を下ろす事務机の上には、再生用のパソコンが置かれていて、ヘッドホンが繋がっていた。  遠慮がちにクソ……美恵子さんを見ると、いつも同様のかっちりとしたスーツ姿でしかない。ブラウスのボタンが外れてるだの、スカートが捲れてるだの、安手のAVのような乱れ姿ではなかった。 「ま、紛らわしい……」  ホントに紛らわしい!! と言いながら、和貴からヘッドホンを受け取った時だった。和貴と美恵子さんが、ふと視線を絡ませた。美恵子さんはホワッと頬を染め、口元を綻ばせて俯いた。その指に、和貴が人差し指を絡ませるのを見逃さなかった。    和貴が気になったモーツァルトだけ、後日録り直す事になり、俺たちは一先ず近くの喫茶店で休むことにした。 「あのさ……」  コーヒーにミルクを混ぜ、いつまでもスプーンでかき混ぜながら、和貴が上目遣いに俺に話しかけてきた。 「気付いた、よね」 「ん? あ、まぁ、何となく……」  美恵子さんと、付き合っているということなんだろうと、俺は曖昧に頷いた。すると照れ臭そうに口元をへの字に歪ませて、和貴が目尻を下げた。 「驚いたよね」 「まぁ、な」 「年上だし、仕事の時は凄く怖いし……でもさ、普段はあんなじゃないんだよ、あの人ああ見えて、可愛いんだ」 「可愛い……ってトシか? 」 「おい」  和貴が気色ばんだ。俺は本気でたじろいだ。男の顔だ、そう思った。あの強くてエリートでひたすらデカイ、和貴の3人の兄貴達のように、こいつにもちゃんと、雄の強さみたいなのがあったのだ。 「ごめん、つい……」  素直に謝ると、和貴は一瞬だけ睨み、コーヒーを口にした。 「まぁ、当然の反応だよ。だって美恵子さん、夏輝兄ちゃんより年上だもん」 「いくつ」 「37、だったかな。本人もトシのことは気にしてる。でもさ、37ったって若いよ。ジムにも行って鍛えてるから、体の線も綺麗だし、美人だし」  坊ちゃんは、大胆なことを恥ずかし気もなく口にする。 「とにかく、僕達、付き合ってるの」 「お、おう」  うんうん、と頷き、ズズッとコーヒーを口にした。苦味が胃にしみる。ここのところ、ブラックのコーヒーが胃に堪える。 「付き合うって、あれだよな、やっぱり……その……」 「ああ、セックス? 」  だから、どうしてそう何のオブラートにも包まないで言っちゃうかなぁ……正に開いた口が塞がらない俺に、和貴は悪戯気に笑った。 「僕じゃ、できないとでも思った? 手を繋ぐのが精一杯って? 」 「思ってねぇよっ」 「……まぁ正直、あんまりそういう関係を結ぶのって、誰が相手だろうと、想像できなかったのは本当。だからさ、始めはやる意味もやり方もよく解んなくて……でも、美恵子さんの事、可愛いって思うから、結構色々研究しちゃったりして……今は素敵な事だと思う、肌を合わせるって」  肌を合わせる……か。紙一枚分の距離とて隔てない、他人との究極の至近距離。俺は両親にすら紙1枚分以上の至近距離で抱きしめてもらった経験もないから、その時が来ても、その隔たりのなさに恐怖を感じて躊躇するに違いない。大人になるって、その恐怖を乗り越える事なのだろうか。 「怖く、なかった? 」 「怖い? ……ああ、そうだね。勇気はいるよね、やっぱり。好きだって気持ちだけで、簡単にそうはならないよ。第一、先月までは美恵子さんが僕の初めての人になるだなんて思いも寄らなかった。ガキだと思われてたしね」  指先で転がして遊んでいたコーヒークリームのポーションが、コロンと転がった。 「ピアノばっかりガツガツやってきたけど、初めて自分の心臓の奥に答えを見つけられたような気がする」  心臓の奥……全ての音楽はロマンティック・ミュージックであって、バロックも古典もない、とロシア人の客員教授が言っていた言葉を思い出した。心を震わせ、悩み苦しみ、人間だからこそ生み出せたのが音楽なのだと。  俺はまだ、音楽を心臓の奥で捉えることはできない……。 「悪かったな、根掘り葉掘り、プライベートな事……」 「何で? まんま発情期の男子学生の健全な話題じゃん。しかも京太郎だから、話せるんだけど」  フフっとほほ笑む和貴は、御坊ちゃま面はそのままに、酷く男臭く感じられた。光樹さん、というより、久紀さんのタイプに近付いたような気がする。 「お兄さん達は、知ってるのか? 」 「ああ……言わないでおいて」 「知らないんだ」 「まぁ……特に夏輝兄ちゃん、大騒ぎしそうだから」  だろうな。誑かされただのお婿にいけない体にされただの、半狂乱になりそうだな、あの激甘お兄さんなら。事務所、追い込まれて潰れるぞ、きっと。  こうやって、周りの友達はちゃんと大人の階段を上っていってるんだな。  和貴が上るのは、もっとずっと後だと、俺は勝手に思ってしまっていたのだ、ホントに勝手に、失礼ながら。  俺は……まだ踊り場に蹲って、ビクビクしてる。    
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