1.パインアップル

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1.パインアップル

 一昔前は、大学生なんて遊んでナンボなどと言われていたらしいし、普通科の学生達は三年次になれば授業数もある程度減って、就活の準備に勤しむのだというが、我々音楽大学の三年次といえばまだまだ授業もパンパンで、実技試験用の試験曲にプラスして卒業後の進路を考えた準備に精を出そうと思うと時間がいくらあっても足りない。  俺は教職課程は履修していないので、まだマシだ。だが、通常の授業に加えて、嘱託として登録している伴奏の仕事がボチボチ入っており、しかもまだ修行中なので見学や聴講しなくてはならない事もたくさんある。  あっという間に後期も終わりが見え始め、親友の和貴も忙しい日々を過ごしていた。奴は演奏会で弾きまくる傍ら、教職課程をみっちり履修しており、梅雨時の教育実習に向けて、早くも実習先の確保に動いていた。  生島(いくしま)千紗(ちさ)のようなトップランクの連中は、コンクールで獲りまくった金看板を履歴書代わりに、あちらこちらと駆け回っている。千紗はやはり歌劇団を目指すのだそうだ。生島は、どうもアルゼンチンの音楽学校に伝手ができたらしく、上手く行けば、あちらのオケに入って演奏活動しながら教鞭をとることになるかもしれないのだという。大好きなピアソラを朝から晩まで弾いて過ごすのだと、店でのステージを終えた時に楽しそうに話していた。  今日も、ステージで弾くのは俺だけである。  ここのところ、去年一年ウチのステージを彩ってくれた個性的な連中は音信不通なほどに顔を見せなくなっていた。それぞれの道を、ちゃんと歩き出している証拠なのだ。 「おはようございます」  と、(まさ)さん特製ハンバーグのせホワイトドリアをヒーフー言いながら食べていたら、俺より細身な小柄で髭面のむさい男が、ダサいトートバックをぶら下げて店に入ってきた。  ここは新宿五丁目『スナック・沙絵(さえ)』。  夜な夜な音楽が流れる、姉貴が遺した大切な店である。 「おはようございます、笠松君。お腹は空いてませんか」 「あ、死ぬ5秒前です」  そんな際どい事を無表情で言うこの男は、笠松陽高(かさまつひろたか)。俺と同じ音大に通う二年生で、作曲科の学生である。ピアノの演奏も達者なのだが、何しろ変わり者で意思の疎通が難しいというか、成り立たないと言うか……暫く付き合ってみて、常に頭の中が超音速回転していて平常の時間の流れの遥か向こうを生きているのは大体分かった。  政さんはそれでも常に笑顔で、奴のためにドリアを用意した。  おそろしく行儀よく手を揃え、深々と礼をしてから奴はガッついた。育ちがいいのか悪いのかもよくわからない。 「今日は、即興やってみる? 」 「うん、別にいいよ」  おいおい、一応俺はここのオーナーだぞ。別に、じゃねえだろ。 「京さん、初見、お願いしてもいい? 」  京さん、て……まぁ、何も言うまい。  奴はハフハフしながらカバンを引き寄せ、譜面を俺に手渡した。おいおい、このコーヒーのシミは何だ、全く。  こいつを俺に紹介したのは生島だ。ま、生島の友達だというくらいだから、まともじゃないとは思っていたら想定以上だった。だが、その曲もまた、想定以上だった。  一応、店の雰囲気、客層を伝え、最初の仕事の時、試験的に曲を披露してもらったのだが、俺も政さんも仰け反った。生島がドヤ顔で横に立っているのが何とも感じなかったくらい、柔らかな優しさに満ちた曲ばかりであった。 「お前の曲は、本当ウケるんだよ、毎回。出品しないの? 」 「ああ……なんかね、売れないんだって、こういうの。だから、ここで弾かせてもらって客に喜んでもらって、俺、実は嬉しいんだよね」  何しろ、課題を出した作曲科の先生に、『そんなダサいお題じゃ書けない』とゴネて課題を出さず、肝心要の主要科目で単位落として留年した強者だ。そう、奴は俺と同い年。髭面もむさ苦しいし、一人暮らしで何食ってんだか分からないくらい細いし、洗濯もしてるんだかしてないんだかと思いきや、身だしなみに汚さはなくて、服からは毎回きちんと洗剤の匂いがする。  一度、スイーツを納品に来た光樹さんが奴を見て、 「あの子、多分磨くとヤバいんじゃない? 」  と俺に耳打ちしたが、どこを磨けばどうなるのか、全く想像がつかない。  まだドリアに食らいついている奴を放って、俺はとっとと白いShigeru Kawaiの蓋を開けた。愛用のグランドピアノ。姉貴が俺に遺してくれたもの。  広げた譜面は、几帳面なほど整っていた。いつものことだが、こいつの譜面はいつも美しい。音符の羅列でさえ淀みがなくて、見ただけで、清涼な響きが隠れていることが瞬時に分かる程だ。コーヒーのシミが玉に瑕だが。  今日の新曲は、少しアンニュイな響きだが、仕事に疲れたお客さんが聴くには丁度良く、すーっと意識に入り込んでくるような優しい旋律だ。 「……流石だな。今日も何人か泣くぞ、これ」  そう、笠松の曲のステージでは、心の奥の柔襞を刺激されて泣き出す人が後を絶たない。初めは面食らったが、今はヒーリング・デイと称し、照明も工夫してお香を焚いたりと、徹底して癒しのステージを演出している。後は……。 「来たよー! 」  と、ドアを勢いよく開けて、アジアの美神が登場した。 「光樹(みつき)さん、いつもありがとうございます」  大きな風呂敷を抱えた光樹さんの後ろから、ひょっこりと和貴が顔を出した。だいぶ忙しいのか、くっきりと目の下にクマが出来上がっている。 「そこでモジモジしてたからさ、連れてきたの。久しぶりすぎて、何だか入りにくかったみたいだよ」  俺はピアノから離れ、まだ入り口で戸惑っている和貴(かずき)の手を引いた。 「弾けるだろ、今日」 「うん……いいの? 」 「バーカ、偶にはウチの売り上げに貢献しろよ。あ、そうだ、笠松知ってるよな、生島の友達の」  カウンターに座っている笠松を紹介すると、怪訝そうな顔をして和貴がそのヒゲ面を覗き込んだ。 「んん……笠松君……え、あの笠松君?! 」  え、あの笠松君て。 「知ってるの? 」 「音高の同級生。髭面で分からなかったけど。だってさ、高校の時は女の子と間違われるような……」 「いやぁ、ひさしぶりぃ、かずき!! 」  和貴の解説をブッタ斬るようにして、笠松は和貴に芝居がかった挨拶をした。そして、カウンターの中でさっさとスイーツの仕込みを政さんに解説していた光樹さんに、ぎこちなく会釈をした。光樹さんは、何で? と一瞬驚きながらも世界を魅了する笑顔で会釈を返した。相変わらず死ぬ程いい香りがして、素顔なのにこれがまた美しい。 「じゃ、俺、ちょっと野暮用で」 「え、おまえ、曲は……」 「前の曲も使ってよ、今日の新曲もあげる」  そそくさと、笠松は出ていってしまった。  その日のステージも女性客に埋め尽くされた。急遽和貴が連弾とソロを引き受けてくれたことで、SNSに流したらちょっと大変なことになってしまった。和貴の知名度は、俺が思う以上に高まっているのだ。 「ねえ、笠松君の曲、僕に弾かせて」  ステージの合間、カウンターで喉を潤しながら和貴がそう言うので、今日奴が置いていった譜面を手渡した。 「へぇん、相変わらず綺麗な譜面だな」  和貴も俺と同じ感想を口にした。 「笠松君てね、あんまり友達居なくって、僕も友達いなかったから、かえって一人同士、時々お昼食べてたりしたんだけどさ……びっくりしたよ。本当に女の子と間違われて電車の中で痴漢されるくらい可愛かったんだから」  いや、そういう君も、多分高校の頃って相当可愛い顔立ちをなさっていたのではと想像するのですが……。 「光樹さんが、磨くとヤバいタイプだって言ってたけど」 「ああ、言ってたねぇ。笠松君だとは思ってなかったようだけど」  謎が多いな、笠松陽高……。 「次、奴の曲、行けそうか」 「うん、粗方予見はできたから、多分初見でいける」 「流石だねぇ」  和貴がピアノの前に座ったのに合わせ、政さんがセットしていた光樹さん提供のスイーツを、俺は配膳するべくトレーに乗せた。  今日は、桜をイメージしたストロベリーチーズケーキ。わざとストロベリーを少なめにして、淡い桜色にしたのだとか。ほんのり香るのがまた憎らしい。  さらに、桜の花びらを象ったグミを3粒ずつ添えていく。  少し鍵盤を見ながら準備できるよう、配膳で時間を稼いでやる。と、音を立てないように、和貴の指は鍵盤の上をさらさらなぞっていた。なぞっているだけなのに、もう音が聞こえてくるような、無駄のない美しい指捌き。  配膳が終わり、照明を変えて、和貴にキューを出した。  三月、出会いの予感と別れの予感、笠松にしては不安を感じさせる和音を多用している。だが、メインテーマが始まると、途端に大きな希望に包まれ、爽やかで控えめながら、新生活への背中を押すような優しさに満ちている。何しろ、演奏している人間の腕がいいから、その曲が持つ感情の起伏を素直に、決して勝手な色をつけずに、ピアノ本来の美しい音色を生かして再現しているから、珠玉のような出来栄えになる。  客席が啜り泣きに包まれ始めた。きたぞ……と和貴を見ると、和貴も泣いてる。おいおい、演奏者が泣いてどうする! 「和貴君、きっと何かあって、ここに来たのじゃないですかね」  政さんが、和貴の涙を見ながら俺に言った。 「ストレスでも溜まってんのかな」 「……京太郎君、そろそろ君も大人になりなさい」 「はい? 」 「指でも切りそうなゴツゴツの棘の中に、甘酸っぱくて瑞々しい真実が隠れている……パインアップルですよ」 「パイナップル? パインアップル? 」 「どっちでもいいんですよ。とにかく、君は裏表が無いのが信条ですが、人の心に届く曲や演奏には、或いは、棘に覆われた心の奥に一つか二つ、秘めた思いを抱えるくらいが良いのかもしれません」 「はいはい、どうせ朴念仁ですよ」  政さんの指摘は多分当たっている。和貴はここのところ、俺を見かけても駆け寄って来ない。それはそれでいいのだが……。  泣きながら演奏する和貴が、ひどく大人びて見えた。これまでなら、もっと全身からお子様臭が漂い、放っておけない気持ちにさせられたものだが……社会で多少経験を積んできたからか、男らしさというか、骨っぽさが出てきたような気がするのだ。 「和貴君も笠松君も、棘の中はまだ未熟でさぞかし甘酸っぱいでしょうね」 「政さん、俺は? 」 「まだまだ収穫前。棘すらなく、青いままです」 「ひでぇ」 「いいんですよ、君はそのままで」  政さんが、俺にも光樹さんのスイーツを出してくれた。 「はい、京太郎君の分」 「うわぁ、美味そう! 」  弾力のあるチーズ部分にフォークを入れると、上品なストロベリーの香りがした。なるほど、甘酸っぱい。  甘酸っぱい気持ちって、どんな感じなのだろう……。
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