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 この世にある国は全て、聖獣の背の上にある。  聖獣の卵に選ばれた者が卵を(かえ)し、王となり生まれた聖獣の上に国を築く。そして、聖獣が寿命を迎えると、また新たな王と卵が選ばれ新たな国ができる。  この世界はそうして成り立ってきたのだと言う。  ここ、ザルクールは蜥蜴(トカゲ)のような聖獣の上に成った国。そう、言われている。  淡い光が目蓋の上に落ちている。両目を開いたフィルミーナは微睡(まどろ)みから と目覚めた。上半身を起こして寝台脇のカーテンを開き、窓ガラス越しに空を見上げる。  乳白色のぼんやりとした空に、所々薄桃色の(もや)が入り混じっている。  何の変化もない、いつも通りの空だ。  面白くもなさそうに鼻でため息をつくと、フェルミーナは稲穂色の短い癖っ毛をかき回す。同色の瞳を瞬きで見え隠れさせ、寝台の上から這い出した。  壁に立てかけられた鏡に、皺だらけのワンピースを着た痩せぎすの少女が写っている。  そう言えば、私今日で十四歳になったのね。  鏡の中で軽く微笑んだ顔は、少しだけ亡くなった母に似ていた。 「やーい! 見ろよ、変わり者が通るぞ」 「ほんとうだ! きっとあの気味の悪い爺さんのところへ行くんだ!」 「へぇ、変なやつ同士、気が合うんだろうな」  あからさまに悪意のある言葉が、フェルミーナの耳に飛び込む。  なんとでも言えば良い。近所の悪ガキに向かってフェルミーナは舌を出し、逃げるように駆け出した。  行く道は細かい凹凸があり、油断していると転んでしまいそうだ。なだらかに下り坂になっている地面は、なるほど、巨大な蜥蜴の背中に見えなくもない。民家の合間に所々生えた突起は、背中に生えたトゲと言われればそうなのだろう。  けれど、本当なのだろうか。  誰もこれが巨大な蜥蜴の背中だなんて、確かめたことはないのだ。  皆、それが真実だと思っているだけで。  フェルミーナは切り立った崖のようになった国の端までやってきた。  元々彼女が住んでいるのは、ザルクールの端の村だ。大した時間をかけず、ここまでたどり着くことができる。  この国は元々、中央に王の暮らす城と王都、周囲を囲む三つほどの町村でできた小さな国だ。国の端から端まで走ったとしても、きっと半日もあればたどり着くことができるだろう。  穏やかな風が彼女の前髪をかき分け、額を柔らかくくすぐった。いつも通りの乳白色の空は、ぼんやりとしていて掴み所がない。見渡す限りその空が続く。  この国の周りに何があるのかも、分からない。 「やっぱり、何も見えない……」  不満げな声を漏らしながらも、フェルミーナは足下に視線を落とす。崖の縁には杭が穿たれ、ロープが垂れ下がっている。彼女は迷うことなくそれを掴み、崖下へと下りていく。  やがてたどり着いたのは、家が一軒入るかどうかという狭い台地だ。  そこに胡座をかいて座っていた老人が、彼女を見て呆れたような声を上げた。 「なんだ、今日も来たのか、ミナ」  ミナと言うのはフェルミーナの愛称だ。もっとも、そう呼ぶのはこの老人くらいだが。  目深に被った帽子の隙間から、ギョロリとした目が覗く。身につけた枯れ草色の外套は、長年着古したかのように穴が空き擦れていた。  口元の皺をより深くして微笑む様は、孫を見守る祖父のようでもある。  いつもこの場所で出会うこの老人は、フェルミーナの良き話し相手であった。 「だって、ここにいれば国のまわりに何があるか、見えそうな気がするんだもの」 「お前さんくらいだろうな。国の外側が見てみたいなんて言う変わり者は」  老人はしゃくりあげるような声を上げて笑う。フェルミーナは口を少しだけ尖らせて、老人の隣に腰を下ろした。  その形状から、ここは聖獣の鼻の上とも言われている。正面から風を感じて、彼女は目を細めて片腕で顔を覆った。  この場所はいつも強い風が吹いている。以前は長く伸ばしていた髪も、ここで巻きあげられるのが鬱陶しくて短く切ってしまった。 「私より、もっと変わり者のおじいさんに言われたくないわ。こんな場所に住んでいる人なんて、他にいないじゃない。ここは風が強く吹くのに、どうやって寝泊まりしているの?」 「さぁてな。とにかく儂らは、変わり者同士ってことだな」  正面に向けた顔をそのままに、フェルミーナはそうだねと軽く相槌を打つ。  国を背負った聖獣は、常にどこかを目指して移動しているのだと言う。時々別の国とすれ違うこともあるのだと言われているが、この乳白色の空が邪魔をして何も見えない。  一体どこへ向かっているのか。 「やはりミナは、この世界のことが知りたいのか?」  嗄れた声で、老人が一言、声をこぼした。 「むしろ、みんなが何故知りたいと思わないかが不思議だわ。だってそう言われているだけで、実際に聖獣を目にした人はいないんだもの」  フェルミーナは正面に目を凝らす。(もや)の向こうに何かが見えてくることを期待しながら。 「私はこの国しか知らないの。母さんもそうだったわ。一体、この国のまわりはどうなっているのかしら? このモヤモヤした空が続いているだけなの? それとも、この空を抜けた『先』があるの? あるとしたら、それはどんな光景なのかしら」  見たこともない、想像すらできないような世界が、この先に広がっているかもしれないのだ。何があっても不思議じゃない。  想像するだけで、フェルミーナの瞳は宝石のように輝いた。  自分の根底が揺らぐような冷たい恐怖も感じるが、それ以上にどうしようもなくワクワクするのだ。心に羽が生えて、どこまでも飛んで行けそうな気がする。  実際はこの小さな国の上で、膝を抱えているだけなのが歯痒い。 「何も変わったものは見えないわね」 「まぁ、そう簡単に見えたら、誰かがもうとっくに真実を知ってしまっているさ。秘密を解く楽しみがまだ残っているとでも思えばいい」  そういう考えもあるだろうか。フェルミーナは嘆息すると、片手を地面について立ち上がる。  腰を浮かせた瞬間、地面が大きくぐらりと揺れた。思わず悲鳴を上げて尻餅をつき、両目をギュッとつむって揺れが収まるのを待つ。  数回グラグラと大きく縦と横に揺さぶられた後、やがて震動は止まった。 「また、地震?」  最近こうした揺れが頻繁に起こる。幸い、近所のおばさんが転んで少し擦りむいたくらいで、まだ大した被害は起きていない。  移動する聖獣の上に造られた国だからか、今までもこうした揺れは時々起こっていた。  しかし、揺れる回数や揺れている時間が、日に日に多く、長くなっているような気がする。何かの前触れではないかと心配する声も多い。 「やっぱり、何か起こるのかしら?」 「……そうだな」  老人はそのギョロリとした瞳を天に向けた。冷たい風が吹き、彼の長い白髪を揺らしていく。 「凶兆か吉兆か、案外人によるかもしれんな」 「え?」  意味深な言葉にフェルミーナは首を傾げる。老人はまた、しゃっくりのような音を立てて笑った。
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