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あたしにたまごがあったなら
あたしね、思ったの。うううん、ずっと思ってたなぁ。あたしに卵があったらって。やぁねぇ、卵って言ったって、スーパーに売ってるアレじゃなくってぇ。あたしのここに。
そう、お腹の中に。あたしのここに、卵があって、卵を温めるお部屋がちゃんとあったら、こんなことにはならなかったと思うの。ホントよ。
四谷署の取調室で、今年、警部に昇進し、組織犯罪対策課の課長として勤務していた霧生久紀は、マジックミラー越しに取り調べの様子をつぶさに観察しつつ、大きな溜息をついた。
「ダメだ、俺の理解を超えている」
横には、この事件を共に担当している本庁捜査一課殺人犯第7係の係長を務める深海逸彦がスラックスのポケットに手を突っ込んだまま立っていた。久紀とは高校時代の同級生で入庁も同期であり、更に同時期に警部に昇進したのであった。7係では警部補時代は主任であったが、丁度係長が定年退職になったこともあり、そのままスライドするように係長に収まっていた。もっと言うと、この男、警視庁管区抱かれたい男第2位の座を6年連続で死守している。
「逸彦、わかるか? 」
「んなわけないよ。ま、マル暴さんには手に負えないわな」
「とにかく、早いとこ裏付け取って送検しないとな。留置期限は明日の朝だ」
「久紀にしちゃ手こずってるじゃん」
「中々核心に触れさせてもらえないんだよ……逸彦、やってみる? 」
ああ、と短く答え、逸彦は控え室を出て取調室へと入っていった。
本庁の警部の姿を見て、久紀の部下である巡査長は慌ててパイプ椅子から立ち上がった。柔道でならした巨体から解放されたかのように、パイプ椅子の座面がふわっと元の状態に戻るべく盛り上がる。
「深海係長……話にならないです」
「変わる。少し休んでて」
「お願いいたします」
巨体は退室し、逸彦はその蒸れたようにも見える椅子に腰を下ろすのをちょっと躊躇した。すかさず、容疑者が甲高い声を上げた。
「ゴリラの後なんか、座れないわよねぇ」
「そんなことありませんけど」
にこりともせずに答え、逸彦は肚を決めたように座り、容疑者と向かい合った。成る程、見た目はどう見ても、女だ。
「えっと……金崎喜和くん、ね」
すると、容疑者は口を尖らせて逸彦に顔を近づけた。
「ねぇ、あたしが『よしかず』に見えて? きわ、きわ、よ」
「きわ、ねぇ。改名届は出してないみたいだけど」
「そんな面倒なことしている暇なんかないわよ。女って忙しいんだから」
「まだそんなこと言ってるの。あんたは、オトコ。男の子」
金崎を指差して言い切る逸彦の前で、当の金崎はロングヘアの毛先を弄りながら嘯いていた。
「あんた、すんごい男前だけど、冷たい」
「はいはい、よく言われる」
久紀とは対照的な、演劇か文学に染まっているかのような爽やかな容姿に、仕立てのいいスーツ。髪はいつもふわふわとボディパーマを当てて風にそよがせ、香りの良いトリートメントでの手入れを怠らない。とても都心の凶悪犯罪案件を右から左に解決していく男には見えない上に、実年齢の32歳より相当若くも見える。
「あんたさ、彼女、いるの」
「ええ、まぁ」
「どうせブスでしょ。あんたみたいなナルシストな男前、自分を引き立てるような都合のいい女しか連れ歩かないもん……」
俺の多岐絵は美人だし、凛としてて格好良いし、ピアニストとして誰にも頼らず腕一本で食べてるんだ、ふざけんな……と、つい憮然として口を尖らせてしまった逸彦の表情を見て、それまで勝手なことばかり喋り倒していた金崎が、ふと押し黙った。
逸彦は咳払いをして気持ちを整え、手元の資料をパラパラとめくり、わざと静寂を守ってやった。沈黙は思考だ。言いたくても言えない、その駆け引きを、今金崎は己の頭の中で繰り広げている。このタイプは、とにかく自分の話を聞いて欲しいのが信条だ。
そろそろ、芋蔓の先っちょを引っ張ってやるか……。
「僕と彼女は、もうかれこれ6,7年くらいになるかな。でも相手は命がけで頑張っている仕事があるから、結婚とか子供とか、今はまだ考えていない」
え、という顔をして、金崎が髪を弄る指を止めた。
「男はいいのよ、それでも。けど女はさ、卵に賞味期限があるように、産める時間って、そんなに長くないのよ。彼女、本当に子供いらないの? 」
「ああ……わからないな。そこまで深く聞いていない。確かに年上だし、そのことは頭にあるかもしれないよな……話してみるよ」
「それがいいわよ」
「で、野上会の若頭補佐・山口祐正も、君に産んでくれって言ったの? 」
「ああ、あたし……どうしてもあんたの子供が欲しいって言ったの。あいつも、お前の子供なら、一緒に育てたいって……でも、産めないじゃん。だって、たまご持ってないもん。そしたら、人工授精で代理母でって話もあったけど、施設とか乳児院から養子をもらって一緒に育てるのもいいねって……でも、将来自分の組を持った時、跡継ぎに血が繋がっていないのは困るって、若頭に強く言われたみたいで……」
この金崎喜和、目の前に座っている姿は、歌舞伎町あたりのキャバ嬢にしか見えない。美容整形の賜物とも言える既視感満載の美貌に、かなり気を使っているであろう細身の体型。下着が見えそうなタイトなニットワンピも違和感なく着こなし、胸の谷間も立派なものである。ただ、資料の上では性別適合手術までは受けておらず、体そのものは男のままである。
この細身のキャバ嬢が、男を自分から引き離そうとした野上会の若頭と他の幹部連中が集まる会合に一人乗り込み、サブ・マシンガンを撃ちまくって皆殺しにしてしまったのである。逮捕時にはレインコートを着こんでいたようだが、目を凝らすと胸の谷間に返り血らしき赤い斑点が幾つか見える。
「山口と、一緒になりたかった? 」
「なりたかったんじゃない、なってたの。一緒なの、いつも。それなのに……あいつの為にやったのに……」
自分が世話になった幹部連中を、まさか金崎が撃ち殺すとは思わなかった山口は、後から駆けつけるなり金崎に銃口を向けた。
「このオカマ野郎って……さんざんあたしの体で満足しておきながら、オカマって……ほんとはこんなオッパイ欲しくなかった。あたしが欲しかったのはたまごなの」
「その胸、彼に言われて? 」
「違う。ゲイってバレると彼、跡目が取れなくなるから……痛いのよ、これ。あたし別に女になろうってんじゃないの。自分の体のままで良かったの。このままを愛してくれれば良かったの。でも……あいつに嫌われたくなくて……バカだからあたし、大きいの入れちゃって、痛くて、揉まれても全然気持ち良くないの。だから、Hも出来なくなっちゃった」
「そう。痛かったよね、それ」
逸彦の呟きが呼び水となって、金崎がアイラインの濃い両目から涙を溢れさせた。そして、ロングヘアの鬘を外して床に叩きつけた。
「全部、あいつのためだったのに」
「……たまごがなくたって、家族になれる人たちは沢山いる。じゃあ聞くけど、子供ができなかったらその人と別れるだなんて、愛だと思う? 」
子供のように、金崎は首を振った。
すると、取調室のドアがノックされ、久紀が顔を出した。
「ちょっと邪魔するぞ」
金崎は、久紀と逸彦を交互に見ながら目を見開いた。
「驚いた……警察ってこんなモデルみたいな良い男揃えてるんだ」
「そりゃ特別ですよ。この二人、警視庁管区内の抱かれたい男第一位と第二位のツートップですから」
記録係がそんな余計な口を挟むと、泣いていた筈の金崎が手を叩いて笑った。きゃっきゃっとはしゃがれ、久紀と逸彦は互いの顔を見合わせた。
「あたし、後から入ってきたワイルドな方が好きー」
「あ、第一位の霧生課長ですよ。この人筋金入りのマル暴だから、怒らせたらヤバいですからね」
更に余計なことを言う記録係を、気合の入った睨みで黙らせ、久紀が内ポケットからビニール袋に入った写真を、金崎と逸彦の間に置かれている無機質な机の上に置いた。
まだ整形前の、二十代の青年らしい若々しさに溢れる金崎と、金崎を愛おしそうに抱き寄せる、笑顔の山口が並ぶ写真であった。ヤクザというよりは休日のサラリーマンのようなカジュアルな姿で、どこにでもいる仲の良い若いカップルにしか見えない。
「ついさっき、山口のヤサから出てきたんだよ。机の鍵付きの引き出しに、大切にしまってあったとさ。この時が、一番幸せだったんじゃないか? 」
金崎は写真を押し抱いた。
「勝手に曲解して、変わっちまったのはお前さんの方だ。山口はお前さんに変わって欲しかったわけじゃないと思うぞ。俺も新宿署時代からあいつを知っているが、小狡くて体裁を気にするような男じゃねぇわ。整形も、胸も、あいつは何一つ欲しくなかった筈だ」
「だから、オカマって? ……そんな、だって……もう、あたしバカなんだから、言ってくんなきゃわかんないよ」
「養子の話もあったんだろ? 生き残りから証言が取れたが、あの会合は、山口の引退を相談するためだったらしいぞ」
「引退……」
「奴は、堅気になろうとしていたんだ。外野の干渉のないところで、おまえと二人で生きるつもりだったんじゃないのか」
「ウソ……あたし、なんでこんなにバカなんだろう」
金崎は、会合の場を血の海にした後で、駆けつけてきた山口に咄嗟に銃を向けられ「オカマ野郎」と怒鳴られたことを引き金に、山口を撃ってしまった。
原型を留めぬほどに山口に銃弾を撃ち込みながら、金崎は側に座ってじっと、山口が事切れるのを見つめていたと言う。
「で、銃はどこから」
「品川埠頭で、中国のマフィアから……野上会の名前出して、箱買いした」
「まだあるんだな、他にも」
「コンテナに、隠してある。品川埠頭の……」
「逸彦、後を頼む」
「おう」
久紀は飛び出していった。
逸彦はじっと金崎が涙を拭き終えるのを待った。
「たまご、なくたって幸せになれたんだよ、君は」
逸彦の言葉が優しく部屋に木霊する。暫くの静寂の後、金崎がこくりと頷いた。案じ顔で推移を見守っていた記録係に、そろそろ始まるぞと目で合図をしてパソコンに向かわせ、逸彦は机の上で両手を組んだ。
「銃を入手した経路、手順、その辺りから、全部話して。ゆっくりでいい」
「……彼の遺体、どうなったの」
「検死が終わったら、遺族に返すことになるが……天涯孤独なんだな、彼は。引き取り手となりそうな親族が誰もいない」
「だから、子供を作ってあげたかったの。たまごが、欲しかったの……」
「そうか」
「一緒に、いられれば良かったの」
「そうだね」
「殺しちゃった……どうしよう。あたし、本当に頭悪いから、バカだから、どうしたらいいのか分からない、わからないの」
「一生かけて、償うしかないよ。君の場合、衝動的とは言い難い。百歩譲って山口に関してはそうだったとしても、幹部連中に対しては、武器の調達から日取りの下調べ、かなり計画的に行なっているよね。これはもう、長くなる。いや、多分出てこられないかもしれないね」
うん、と頷き、金崎はお腹のあたりを愛しそうにさすった。
「ここに、たまごがあったらな……」
「いると、そう思っていれば良いじゃないか。山口との間の、二人のたまごがそこに、ちゃんといるって」
「……うん。刑事さん、男前なだけじゃなくて、優しいね」
「正直にきちんと罪を償う人には優しくできる」
「うん……ちゃんと償って、彼のところに行く」
そして、金崎は全ての経緯を洗いざらい白状し、期限内には送検、即日中に裏取りも済んだところで無事に起訴されることとなった。
銀座の『SEGRETO』のカウンターに並び、久紀と逸彦は無言で二杯、酒を煽った。マスターも声をかけず、ただ空になったグラスを差し替えていくばかりであった。
今日は、多岐絵にも光樹にも連絡はしていない。この重苦しい空気を、抱かれたい男ツートップで心ゆくまで堪能し、没頭し、打ちのめされておきたかったのだ。
「久紀、明日は? 」
「非番」
「ボクも」
それだけ交わし、さらに一杯ずつ煽る。
「相変わらず、四谷署は賑やかだよな」
「ま、二丁目が管轄なだけに、人間模様の不思議さには事欠かねぇよ」
「課長が課長だけにな」
逸彦は、久紀が血の繋がらない弟・光樹と密やかな愛を育んでいることを知っている。しかも相手は、イタリアの有名ブランドの顔としてモデル活動をするほど、いや、アジアの美神と称えられるほどに美しい人物だ。
そんな人物が、イタリア男には目もくれず、逸彦と多岐絵が感心するほどに久紀を一途に愛しており、久紀もそんな光樹が可愛くて仕方がない。全身から弟への愛がダダ漏れなのである。
「うるせぇな……逸彦、おまえ20分前から、もし光樹が金崎と同じこと言い出したらどう答える? とか聞こうとしてたろ」
「そういうお前こそ、多岐絵が子供が欲しいって言ったらどう答える? って聞こうと考えていただろ、20分前から」
フッ、と二人同時に口元を解し、更に一杯ずつ煽った。
「山口はさ、ちゃんと考えていたんだよ、金崎との将来。それなのに、ちゃんと伝えなかったんだ。そのままでいいから、一緒になろうって」
「だから金崎は勝手に山口の心を探るようなことをしてどんどん独り相撲になって、体弄ってかえって山口の真情が見えなくなって」
「何やってんだよな。写真と一緒に、パートナーシップの申請書も出てきたよ。やりきれねぇよ、全く」
ここでまた一杯、と思いきや、マスターが待ったをかけて、チーズの盛り合わせを二人に差し出した。
「体に触りますよ。乳製品で少し胃を落ち着かせてください」
同時に頭を下げて、同時に手を伸ばした。二人共最初に手を伸ばしたのはカマンベールチーズだった。
「お先にどうぞ、深海係長」
「いえいえ、霧生課長」
すかさず、マスターがカマンベールチーズをもう一切れ、皿に乗せてくれた。一つずつ手に取って、二人は同時に口に放り込んだ。
「……係長だの、課長だの、ジジくさくなったもんだなぁ」
「やめろよ、まだ花も恥じらう32ちゃいだぞ」
32ちゃい、と大真面目に答える久紀の肘を突き、逸彦が笑った。
「でさ、さっきの答えだけどさ……俺は産んでって言うと思う。すぐにでも、多岐絵と家族になりたいし、多岐絵との子なら、事務職に鞍替えしてでも一緒に育てたいと思ってる」
「そう、言ったか、タッキーに」
「言ってない」
「だよな」
「だって……いや、こういう一人合点がダメってことなんだよな」
「そういうことだ。俺の方は……んん、絶対体にメスを入れるなって言うだろうな。俺たちは戸籍上は離れずに済むし、俺を看取ってもらうこともできる。それでもし、光樹がたまごが欲しい、って言い出したら……一緒に探すよ」
「探す、たまごを? 」
「そう、たまご。二人で育てられるたまご。あいつのままで、俺のままで、何も変えずに始めから一緒に育てていける、そんなたまご」
「養子ってこと? 」
「アリだと思ってる。下の和貴も結婚はどうだかわからないし、兄貴は相変わらず亜矢さんの幻影から抜け出せていない。誰も継げねぇんじゃ、墓守困るじゃん」
「うわっ、古っ! 今時墓守とか考えるか? 」
「うるっせえな……墓にも一緒に入るんだよ、あいつと」
プッと、とうとう逸彦が派手に吹き出した。バツが悪そうに久紀がバーボンを煽ると、マスターが水を差し出した。
「ほら、一緒にお墓に入る方がお見えですよ」
入り口の方を振り向くと、口元を押さえた光樹が両目を一杯に涙を湛えて立ちすくんでいた。今の、墓にも一緒に入る、のセリフを聞いていたのだろう。
「何だ、来たのかよ……」
ぶっきらぼうに答える久紀に、光樹が涙を手の甲で拭いながら微笑んで、その腕に絡みついた。
「帰ろ。近くで仕事だったから飲んで帰ろうと思って寄ったんだけど、もういい。はやくぅ、一緒に帰ろうよぉ」
「んん、しょーがないなぁ」
「はいはい、しっしっ、イチャコラしてないでとっととお帰り」
デレつく久紀に片手を振り、逸彦が追い立てた。まんざらでもない様子で、久紀は万札を置いてカウンターから立ち上がった。空きっ腹に飲んだのが効いたのか、一瞬足元がふらついたが、光樹ががっしりとその体を掴んで支えた。
「光樹、そのデレ助親父、頼むよ」
「はーい。タッキーに連絡しとこうか」
「え、いや、俺は……」
「はいはい、電話しとく。多分、秒でくるから待っててね」
よく気のつく奥さんだね、とは言葉にせず敬礼して見せると、よく言われるの、とばかりに光樹がウインクを返した。
秒どころか、たっぷり2時間は待った。
だが、多岐絵は仕事の打ち上げを途中で抜けて、現場から自宅と反対方向になるこの銀座まで、電車に飛び乗って来てくれるのだという。
「マスター、まだ大丈夫ですか? 」
「大丈夫ですよ。折角美人ピアニストが来てくださるのに、お迎えしないわけには参りません」
「すみません、いつも無理を言って」
マスターは笑って何杯目かの水を差し出した。
「レディの前で泥酔するわけにはいきませんよ」
「ですね」
やがて、息を切らした多岐絵が駆け込んできた。
「逸っちゃん!」
客が誰もいなくなった店で、立ち上がって出迎えた逸彦の胸に、多岐絵は勢いよく飛び込んだ。
「多岐絵……」
逸彦は多岐絵の体をしっかりと抱きしめた。
「ごめんね、待たせちゃって」
マスターは、看板の灯りを落とし、二人を笑顔で見送ったのだった。
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